43 『 比島の戦野で 』

ラジオ中国『テアトル・ヒロシマ』から---

 

  フィリピン

 『比島の戦野で』(第三回放送)

     

     「日本の遺書」

 

    (昭和36年5月1日午後10時15分から午後10時45分・放送)

 

   構成 ・ 大牟田 稔

 

   語り ・ 宇野重吉劇団民芸

 

   アナウンス・室積 馨

 

   演出 ・ 秋信 利彦

 

 

 

 

 ラジオ・ドキュメンタリー『日本の遺書』は、戦前・戦中の狂気の日本が。再び戦争の愚かさを繰り返さぬため、戦火が生んだ数々の悲劇を、

 

 多くの証言を集めることによって構成した番組で、昭和36年、ラジオ中国(現在の中国放送)から十二回にわたって、一回ずつ独立した形の作品として放送された。

 

ここに再録したのは、シリーズの第三回で、

”俳句をつくる兵隊”の眼を通して比島敗戦の悲惨を衝いた。

 作家・尾崎士郎氏(昭和39・2死去)の証言も収録されている。

 (構成者の言葉)

 

 

 

 

死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は、何がわかればいい。

 

 死んだ人々には嘆くすべもない以上、生き残った人々は、誰のことを、

 何を嘆いたらいい。

 

 死んだ人々は、もはや黙っていられぬ以上、生き残った人々は、

 沈黙を守るべきなのか。

 

                      ジャン・タルジュ作

                      渡辺一夫

 

 

 

 M (音楽)

SE 砲弾---BG

 

 フィリピンの夕焼けは美しい。夕方、空はいつまでも明るく薔薇色の

風が吹く。と、夕闇が駆け足でやって来て、

たちまちとっぷりと暮れてしまう。

 

  昭和十七年一月、焼けつく厚さのフィリピンで、日本軍はバターン、

コレヒドール総攻撃の準備を整えていた。

 

  私、陸軍野戦道路隊の大成一等兵は、橋をかける作業に汗を流している。

 

SE 作業音---BG

 

  『おーい、ぐずぐずしとると今日中に橋はできんぞ』

 

  向こうの方で大村軍曹が怒鳴る。

 

 

 

  『うえー、この水牛のやつ、くせえのなんの』

 

  わたしがは呟く。私の足許には水牛が一頭死んでおり、その膨れた腹に私は

足をかけてボルトの穴をあけているのだ。目をあげると川岸に友軍の

真新しい墓標が三つ。その新しい砂に陽炎(かげろう)が立ちのぼっている。

 

  友埋ずむ砂がめらめらかげろえる(二度繰り返す)

 

  『うん、こいつはまずいな』

 

 私はひとりごとをいう。それでも、今夜ノートにつけとくぞ、と、

 二、三度繰り返してみる。足許の水牛がブヨブヨと動き、川岸を

負傷兵を満載したトラックが砂煙をあげて走り去った。

 

  ここで、この一編の主人公大成一さんに

当時の模様、戦場での句作について聞いてみよう。

 

  大成--- 一月二十二日にバターンに入りました。そのときから私は、戦場の

 きびしさというものが、戦車はやられますしね、友軍もやられますし・・・

向こうは暑いですから死体が二、三日もすると真黒く、人の倍ぐらいにも

 ふくらんで、そんなのが道路わきに転っとりますしね。

 

いよいよ戦場は殺気立ってきましてね、その頃から、慰安もありませんもんですから、      私はいろんな句を作っていたわけですよ。毎日、塹壕の陰で句唱につとめる。

と、こういうふうでした。

 

 激戦のあとでも、私は

 

桃に似し花咲き戦車横たわる

 

椰子落つる音に驚く廃墟かな

 

 そんな句をひそかに書きとめていた。

 

SE トラック進行音---BG

 

  『アメリカの奴ら、退却しながら、よくもあんなに砲弾打ち込んだな。

 田んぼは穴だらけじゃないか』

 

  『やっこさんたち、逃げながらも町も村もみんな火をつけるんだからなあ』

 

  『これがお得意の焼土戦術さ』車に揺られながら戦友たちの話を聞いている。

 

SE---トラック止まる

 

 『橋材おろせ』

 

  班長殿の声だ。私たちは、橋の材料を投げるようにおろす。

やがて土嚢づくりが始まる。

 

SE 砲弾---BG

 

  『来たぞ伏せろ』

 

  声がとびかう。とっさに私は熱い砂の上に伏せた。当るもんか、

 呟きながら動悸が押えきれない。

 

SE 機関銃---BG

 

  私は目をあげる。十メートルも先から赤い色が目に飛び込んできた。

カンナの花だ。それは鮮やかに咲いていた。

 

  『不発弾があるぞ』

 

  誰かが叫んでいる。砲声も遠のき、私の心はゆったりひろがる。

ああ、また橋づくりだ。

  

  側(かたわら)に不発弾ありカンナ咲く

 

 M---(短く)---

 

 昭和十七年二月。フィリピンには宣伝班称する一隊、約二百人がいた。

そのなかには作家の尾崎士郎石坂洋次郎今日出海火野葦平、哲学者の三木清

 画家の向井潤吉氏らもいた。そして、オラニという海辺の町で、尾崎さんは

 

俳句をつくる兵隊とめぐり会った。

その当時の模様を語る『人生劇場』の作家・尾崎士郎さん。

 

  尾崎---オラニにいるときにですね。たまたまある晩、ひとりの兵隊がやって来て、

 私を訪ねて来た別の鉄道部隊の兵隊がおるということを伝えましたので、すぐおりて

行ってみるというと、真っ暗ななかに確かにひとりの兵隊がおりました。

 

  実は、自分はこちらにいる間に俳句をつくったと、

これをひとつみてもらいたいということでした。月の明りというわけではなく、

ほのかな外の明りで、その人の顔をややはっきりと見きわめることができる

 ようになったんです。

 

まだ四十前後で、それから、なんとなく実直な感じの、

 日常生活を大事にしている人間だということは、私、一見して

 よくわかったんですが、そのときにですね、まあ外の光りですかしながら、

 紙に書いた俳句を読んでいるうちに非常に私も強い感銘を覚えました。

 

  いま覚えているのは

 

 密林にひぐらしを聞くいのちかな

 

 という句だとか

 

 ジャングルや一冊の俳書を捨てきれず

 

 というような句はですね、こりゃあ、いかにも実感であって、あの苦しい生活の中に

 いなければ、到底、深く理解することはできないかもしれませんが、

 私たちは同じような環境と、同じような運命のなかに生活しておりましたので、

 一字一句が非常に身にしみて心に深く、はっきりとつかみとることができたんです。

 

N『その夜は、私にとってはこの世で最後の夜になるかも知れないという覚悟があった。

 翌朝は総攻撃に出発ということが決まっていたのだ。私は紙切れを拾って、

 十数句を書きつけ、「いいと思われる句に○印をつけて下さい」と、勇を鼓して

尾崎さんにさしだしたのだった。

 

 中佐待遇の尾崎さんと、一等兵になったばかりの

私とは、数分間の立ち話で別れた。私は、名前を聞かれても笑って言葉を濁し、

 実感がこもっていると、ほめられただけで十分満足していた。』

 

AN 萩原井泉水の俳書を心の糧にしていた俳句の兵隊・大成さん---。

 

  大成---港を出るとき一冊の俳書を持って、それを楽しみに本を見たり、

 自分で句作したものをノートにつけておるというふうにして、

 戦場のきびしさのなかに俳句によって”自分”というものを、とくに歩哨やなんか

立ちますと一日中もう歩哨に立っているんでしょ、まことに寂寥と緊迫感とで

寂しいんですなぁ。

 

そいつをまぎらわすために、いつ弾丸がくるかわからないと、

そんなことを思っていたってしようがないですからね。---人間はねえ、

それだからむしろ俳句をつくっていると----いろんな俳句を作りました。

 

  立哨の剣に来て去る蛍かな(反復)

 

  青バナナさげて偵察かえりけり(反復)

 

  私は臆病な兵隊なんだろうか。戦友がスパイの疑いで何人かのフィリッピン人を

撲り殺したとき、私は目をそむけた。明るい太陽のもとでのその原色の

 なまなましい光景に、私は逆に生命のいとおしさを感じてしまうのだ。

 

SE---作業音にまじって砲弾の音

 

  『暑いなぁ。身体中の塩がみんな吹き出してしまう』

 

  『もう十メートルも進めば一段落だ。え、急げ急げ』

 私たちは潅木の林に道をつけている。

 

SE---砲弾

 

  『おい、この茂みからのぞいてみろ』

 

  『ああ、なんだ。なにが見える』

 

  『敵さんの陣地さ。ほれ、撃ってる、撃ってる』

 

  『ほう、あれか。ぱあっと煙が出るとしばらくしてドーンドーンとくる。

ふーうん、なぁるほど』

 

  『うろうろすんな。ねらわれるぞ』

 

 私たちは作業を終えると、近くの谷へおりた。木が高く生い茂る緑の葉を通して

降り注ぐ陽の光は、深い海の底のように青い。

 

SE---ひぐらしの鳴声---BG

 

ひぐらしが鳴いている。今は砲声もやみ、瞬間、戦争を忘れる。妻子の思い出を

故郷にはせているのか、戦友たちもひぐらしにじっと耳を傾けている。

あれが生死を越えた生命の哀しさか。

 

  密林にひぐらしをきく生命かな(反復)

 

M---SI  CS

 

  激戦下、橋を架ける作業に従事してから二年半、私はマニラの米人捕虜収容所に配属

されていた。昭和十九年初夏、戦況は急速に不利になり始めていた。

 心やすい捕虜のひとりがいう。

 

 『海の水はずっと続いている。いまにアメリカはきっと攻め返してくる。』

 私も英語で言い返す。

 

 『馬鹿野郎、お前らをおいて逃げるようなマッカーサ-にそんな勇気があるか』

 捕虜はふふんと嘲笑。事実、日本から来る船団は、バシー海峡か、マニラ湾口で

次々に沈められ、米軍機もときどき姿を見せ始めていた。

 

そんなある日、

 米人収容所のなかに、子どものための学校をつくってやることになり、

 私は捕虜のひとりが住んでいた家を、学校の材料にするため、

とりこわすよう命じられた。私は捕虜と初年兵たちを連れて出発した。

 

  大成---その家へ行ってみたら、非常に大きな邸宅で、紫陽花の花が乱れ咲いていて、

そこのおやじが捕虜として私の下で帰って来とるというんで、非常になにか、

わたしとしても哀れな感じがありましてね、一句をよんだんですね。

すぐ私は手帳をとり出してそれを書きとめたわけです。それを初年兵が見とりまして、

 

  昼の時間になって二人で飯盒をつつきながら、初年兵が

 

班長、さっき何か書きましたね』

 『いや、何も書かん』

ちゅうたら

 

『書かれたでしょう』

と言うもんだから

 

『実はくだらん俳句を書いたんだよ』

といったら

 

『そうですか』

ちゅうわけ。

 

 『実は応招になるときフィリッピンだというので、いろいろ研究して来た。

たまたま自分が六年を教えているんだが、その教科書のなかに、

こういう俳句があった』と。

 

 『何なら』いうたら

 

 弾の下草萌えいずる土嚢かな

 

『あっ、それはおれがつくった俳句じゃないか』。

 思わず知らず私は叫びました。

 『本当か』

 

  私はその兵隊に何度も念を押した。私の俳句が国民学校の教科書にのり、

 内地の子どもたちに読まれている。なぜそんなことになったのか、

とまどうような気持ちだ。

 

 『あした、さっそく、バギゥの国民学校に行ってみましょう。

 教科書はあるはずです、絶対、間違いありませんよ』初年兵の声もはずんでいた。

 

SE---『鯉のぼり』の児童合唱

 

 女児の声『初等科国語教科書、巻七』十八、ゆかしい心。その三、俳句。

 

  第一線に近い宿営に待機していたときのことだった。すぐ隣りの宿舎にいた

 ひとりの兵隊さんが、俳句をつくったから見てくれと夜中にやって来た。

 

 夜、灯火を用いることは固く禁じられているの、窓から流れ込む空の明るさで

兵隊さんの顔は、やっとわかるほどであった。兵隊さんの差し出す紙きれを手にとって

一字一字薄明りにすかしながら読んだ。

 

  『弾丸の下草もえいずる土のうかな』

 

  『密林をきりひらいては進む雲の峰』

 

という二句であった。

 四十近いこの兵隊さんは、戦線への出発を明日に控えながら、その前夜

 自作の俳句を読んでくれと、わざわざやって来たのである。

 

 陣中新聞え発表してはどうですか、とすすめると、いや、そんな気持はありません、

と答えた。あなたの名前は、と尋ねても、黙ったまま笑っていた。

 兵隊さんは俳句を読んでもらった満足を

感謝のことばにあらわして部屋を出ていった。

 

  尾崎---”ゆかしい心”という題をつけたのはね、戦場生活のようなああいう、

なんて言いますか、まるですさむような形のなかにいながらね、

 俳句をつくったり、それから、自然を眺めてその自然のひとつひとつの

動きにですね、

 

 心をとめて生きておられる余裕をもっているという、

とくにあの兵隊の一生涯の運命というものはね、ああいう戦場

 生活のひとこまひとこまのなかに限られてしまっているんですから、

 

 明日はどうなるかということは無論わからんし、もう今日、目前の生命に対しても、

 絶えず不安と脅威を感じながらですね、それだけの余裕をもっているという

 ところにね、やっぱり、この人間のねえ、生き方というものを感ずるし、

 

それからそういうところにあっても、なおかつ自分が平常心を失わないで

生き通していくことの出来る夢と理想をもっておったと。そこがですね、

やっぱり、この人の人間味じゃないかと思うんですうよ。

 

M---BG

 

  戦局は日に日に悪化してきた。私たちは内地帰還の噂によくとらわれていたが、

 昭和十九年も秋深まってくると、もう誰も口にしなくなった。

 一年くらい前までは戦友が戦死しても

 

 かげろうをほりて骨をば拾いけり(反復)

 

  そんな俳句が生まれていたのだが---。

 

  脱走した捕虜の身代わりに他の米兵捕虜五人を銃殺、その中の一米兵はめかくしを

拒否し、射手の私をにらみつけ、アメリカ万歳を叫び従容と死ぬ。

 

  町のなかで機銃が暴発し、フィリピン人の老婆と子供が即死、こんな事件が

追いつめられた日本軍のまわりで続々と起こった。

 

 昭和十九年十一月、私たちはレイテ作戦に参加することになり、北飛行場へ移動。

 

SE---空襲、機銃掃射---BG

 

  『畜生、友軍機かと思ったら、グラマンの奴』

  

SE---サイレン

 

 『なんだい、今頃、空襲警報出したって間に合うかよお』

  『見ろ友軍機だ。グラ公と空中戦だぞ』

 

  『お、零銭がんばれ』

 私たちは怒鳴って草に伏し、頭をもたげては怒鳴った。

 

SE---爆音

 

  『おッ、やられたぞ』

 見ると友軍機二機がグラマンに上空から押さえつけられたようなかっこうで白い煙の

尾を引いている。

 

  『やられたか』

  『不意打ちをくうと飛行機もさっぱりじゃないか』

 

  『あああ、負け戦さ』

もう私たちの間では、神風日本の信念にひびが入り始めていた。

 

  グラマンやしばし退避の草いきれ(反復)

 

  特攻機が飛び立っていくのを見送っても、もう私には寂しさの感情しか

俳句はつくれなかった。

 

  征でませし基地なり虫の鳴いている(反復)

 

  昭和二十年の正月、大成さんはリンガエン湾の沿岸で猛烈な艦砲射撃を受けた。

 部隊はバギウの山中にしりぞいた。

 

  大成---山の中え逃げてからというものはね、もうほとんど駄目ですな。

あまりきびしくて悲惨であったら、もう句など生まれませんですな。やはり、

きびしさの中にも、まだ心のゆとりがあるというところまででしょうね。

 

 昼は、

 全然動けないんです。敵の飛行機が来ますから、飯盒のひとつ音をたてても、

 飛行機が来ておりましたら電波で感じまして、哨戒機が、すぐ黄色い煙をまくんです。

そうすると、すぐグラマンが来まして、ダダッとおとすわけです。

 

そこで、昼は全然動けないんです。

 昼は寝てるんですわ。あすこの山中には五十万近くの兵隊が

入っていたですからね、食料はないわけですよ。

 

  四月中旬、山下泰文大将も密林深い山中に司令部を移した。それ以後。日本軍の

指揮系統は乱れ始め、兵隊たちは食料の芋畑を求めて奥地へと、

いわゆる転進し始めた。

 

  その頃になると、部隊全員が病人だった。私は何人戦友を見殺しにしただろうか。

 

  『おーい、すぐ迎えてに来てやるからな。それまで待ってるんだぞ。ここを動くな』

 私は道ばたに倒れた戦友にいう。しかし、迎えに来れないことは、そう言う私も、

 言われる戦友もよく知っているのだ。

 

 命をつなぐために他部隊同志はおろか、

 戦友は死んだ戦友の股の肉を切りとって喰い、野戦病院は名ばかりで樹下に

 ころがっているだけ、そこの衛生兵は死者の肉を乾して食っていた。

 

とくに従軍看護婦は見はなされ、やむを得ず斃れた兵隊の肉を食べ生きていた。

 私などは動いとる動物はミミズ、蟻、オタマジャクシ、土まで食べて命をつないだ。

 人間も切羽つまると道徳も友情もへったくれもない。

 

  大成---栄養不良になりましてねえ、そういう者が歩けなくなりますと、うん、うん

 うん、うん、松の木へしがみつきましてねえ、最後は、もう”お母さん、お母さん”

言うてね。若い者のみな”お母さん水が欲しい。水が欲しい”言うて

死んでいくんですよ。ほんとにもう、地の底から湧いてくるような悲しさですね。

 

  最後はみな行軍中にみな自殺するんですからね、自殺用の手榴弾をひとつ

持っておりまして、悲惨なものでしたね。この世の生き地獄でしたですねえ、

バギゥの山中というのは。今もあそこには遺骨がずいぶん

 ありますでしょうね。何十万いうてあそこで死んだでしょう。

 

  こうして戦争は無惨な結末をつげた。大成さんは弱った身体を戦友に助けられて、

 九月十六日、米軍に投降、約一年間の収容所生活ののち、昭和二十一年秋、

ほぼ六年ぶりに日本の土を踏んだ。

 

  私の句が教科書にのったことは、親類の者も、フィリピンからの手紙でよく知って

 いた。その教科書も保存してあった。しかし、私は戦争に負けてしまった以上。

なんか私の俳句も一片の悪夢にすぎないような気がしていた。

 

 尾崎さんにも会いたいと思ったが、いまさら名乗り出るのも恥かしいという思いに

 とらえられた。何年かたって、やっと私は記憶をたどってフィリピンでの俳句を

思い出そうと努力を始め、百二十句近くを復元した。戦後十四年、ふとした縁で

尾崎さんと対面した。話は尽きなかった。

 

  尾崎さんの記憶に最後まで残っていた一句について大成さんは、

 

  大成---『ジャングルや一冊の俳書捨てきれず』---戦争に行きますとね、ほんとに

 ちり紙一枚が重たくなるんですよ。そりゃ微妙なものですな。

 一枚一枚捨てていくんですよ、五箇条のご誓文なんか一枚一枚捨てていくんですよ。

 

 重たくなるから。自分で趣味にもっている俳書の方が捨てるには惜しいと、

いつまでも捨てきれずに、いつこのジャングルの中にほってやろうかと

思っているんですけど、なかなかほおれんですな。あのぶんだけは、重たくても。

 最後は、自分で一生懸命書いたものを用便の用にしました。

 

しかし心の中ではその俳句を忘れずにね、大事に持っておりました。

 

  尾崎士郎さんは、戦場での人間について

 

 尾崎---私は、その時も一日、敵陣を前に、草原に寝ころんでいるうちに、個人と

世界というようなことをぼんやりと考えました。はじめは、われわれ個人の生命と

 いうものが戦場ではまるで虫けらのようにじゅうりんされていく。そういうただ

 

 その悲痛な空虚な、つまり、人間というものの存在をまるで無視した状態のなかに、

いったい何があるのかというようなことは、強く私の心を支配したわけでありますが、

その時は、空を流れている雲を眺め、ずっと、遥かに続いている山とか

森とか、そういう自然の風景につながっていく姿を眺めているうちに、

 

 個人と世界と、どっちが大きいか、その大きさがわからない、つまり人間というものは

確かに微妙な、一つの虫けらも、時によっては小さなものであるかも知れないけれど、

しかし考えようによると、人間は世界よりも大きいものじゃあないかと

 

AN 最後に大成さんに戦争感を聞いてみよう。

 

  大成---私は、戦場というのは集団的な生命のやりとりですからね、

 人間というものはつまらないものだと思っていました。

 

  太陽が、向こうはきれいな太陽が出ますからな、その太陽の下で、お互い、人間同士

が撃ち合いをしているなんて誠に、まずい・・・・・・。

 

  大成---本当に戦争の中でね、生きてスリルを味わうということは瞬間的なことで

一年も二年もおらされたんでは、とても耐えられない。

 罪のない者を殺し合うでしょう?

 

  戦争はこりごりですよ。

 

M---SI---UP---FO