39 『 海の嘆き 』

 青い波打際に日傘の女が、海をみつめている。一人の男が、赤い小旗の浮く禁止区域を上手な波手を切って、沖へ沖へ遊泳する。潮流は速度をまし、急に水温が下がる。そのとき、突如!!男の左足を、ケイレンが襲う。

 

 遊泳中ケイレンはでき死を意味するが、海に狎れた男は、狼狽せず海面に仰向けとなり浮揚状態になろうとするが、ケイレンの激痛に葦は硬直し、五体は彎曲する。その格好は水中においては、必然的に海中を石のように沈み行く。

 

   「ア、ア」

と、男は来るべき運命を感ずる。

 

  台湾の西海岸は、波打際から、すぐ深海となり、男は十米余の深海の底で、なお冷静を失わず、目をあけている。海底の水は水晶のように青く澄み、その静かさは、さながら草原の朝である。

 

そのすがすがしい美しさに、男は呼吸困難を忘れ、生も死も忘れ、陶然とし、むしろ死の清浄を知り、海底に果てる命を、悲しんでいないのである。

 

  今も、あのときの生死をこえた命の美しさは、どういう心理であったのか、説明できぬ。

 

  何分かの後、ケイレンはやみ、海中の水をかきわけて、浜辺にかえる。

 

  「いなくなったが、どこにいたの」

と、渚の女は怪訝そうにきく。

 

  「ウム、死にかけたよ」

と、海の底の出来事を話す。

 

  「とても明るく、海底の砂が、宝石のように輝き、そこは水の宮殿であった」

と、男は命にかかる重大事を、夢の中のことのように、去り気なく言う。

 

  その夏、また男はその海へ行く。

 

  天気快朗だが、風強く波は高い。

 

  男は平然と波に乗り、沖へ出る。高波は泳者には苦にならず、うねりの波に乗っていればいいから、男は楽しそうである。

 

  しかし、男は瀬戸内海育ち、高波の恐しさを知らなかった。

 

  いざ、渚にかえろうとすると、からだは高波にさらわれて立っておれず、泳げば木の葉の如く翻弄され、荒れ狂う白い歯の高波は男を呑み、どうしても岸につくことが不可能だ。

 

  「もう、駄目」

と、あのときは観念し、砂浜に待つ女のことを悲しく思う。

 

  ところが、ふとした拍子に、高波は男を岸辺にぶち上げてくれ、危難を脱するも、手も、足も、胸も、腹部も、磯に附着するカキ殻のため、全身の皮膚が破れ、血が噴き、男は血ダルマとなる。

 

  女は、その凄惨な形相をみ、気絶した。海水着一枚の若い女性を、血ダルマのフンドシの二十二の若い男が背負い、砂の飛ぶ砂丘を力なく歩いていく。まるで地獄絵である。

 

  海にはいく度が、苦しい目に会うも、海を怖れず海に行く。海の好きな男である。このころになり、海な好きな理由が男にはわかりかける。

 

  海は女の精である。

 

  夏は水冷たく、冬は暖かく、そして海はしっとりと男を抱きしめる。幼い日に抱かれた、母のふところに似ている。そして、海には子守唄がある。

 

  島の夕方の七夕の宵、悪童は、ワッショワッショと、童子を担ぎ海へ投げ込む。童は泣いてけると、母は

 

 「泣く子はいや」

と、童が海中に必死にもがき、海上に浮かびあがったことを、よろこぶ。そのときから海の子となり、渚の小魚と遊び、蛸をつかまえて遊ぶ。わざと海底の泥を、からだに塗り、泥人形となってかえると母は

 

 「マア、汚ない子よ」

と、井戸端に行き、井戸水を汲み、洗うてくれる。

 

  その母は、男が出征中、病み、わが子の名をよびつつ、息を引きとる。

 

  無事、帰還した男は、母の墓を抱き、三日三夜、泣きつづける。

 

  もう男は、孫があり、母より十年も、長生きしているが、母が恋しいときは、近くの海に行き、そっと海に入り、沖へ沖へと泳ぐ。

 

  真夜中の海は、波は眠り、下弦の月が淡く照り、暗い海面は、あくまで暗く、寂しい。

 

  「もの静かな母」に、会えはせぬかと思い、男は母を恋いつつ、暗い海上をいつまでも泳いでいる。

 

  海のすきな男は、旅に出て四季を問わず、海にとびこむ。鳴門海峡は、水質のきめが細かく、水は、心まで冷たい。指宿湾は、海底に熱湯が沸き、真冬でも、海は温い。

 

  網走の原生林に打ちよす、オホーツクの海は吹く風のように、塩水は舌に荒いが、ハマナスの花は可憐に咲いていた。

 

  最も印象的に、美しい海は、敵前上陸した、リンガヘン湾である。

 

  昭和十六年十二月二十三日、未明、わが輸送船団五十余隻は、1隻の事故もなく目的地に突入する。まだ暗く、敵地は見えない。

 

  長い輸送船上の生活に、退屈を感じ、十数日、島かげ一つ見えない海原を眺めて暮した兵隊は、青い山が恋しい。しかし、そこは敵地であり、死の戦場である。

 

  皆一様に緊張し、武者ぶるいし、夜の明けるのを待ち、しらじらと明けて行く空の下に

 

 「アア敵地だ」

と、叫ぶ。

 

  長い白沙の浜に、青波がよせ、椰子林が並ぶ。美しい風景は一幅の絵であり、皆

 

  「美しいなあ」

と、見惚れる。

 

  「これが、戦場か」

と、不審に思う。

 

  そう思う間もなく、彼我の砲声が炸裂し、一瞬にして修羅場と化し、目の前の輸送船は、魚雷をうけ、真二つに、裂けて爆沈していく。傷ついた兵の血が、赤く、花弁の如く海を染め、周囲は阿鼻叫喚の巷となり、上陸用舟艇は狂獣となりて、敵に殺到した。

 

  そのときの、激烈な戦闘は、忘れ得ぬが、戦端を開く寸前の、静かなダモルテスの美しい海は、今もカラーの如く、私の目の中にある。