20 『 親分 』

  酒場には、常連がいて、常連はいつも同じカウンターの一隅で飲んでいる。指定席はないが、最初にすわった、椅子と場所が、落ち着つくのは不思議である。その酒場で、親しくなった仲間に、阿知須町の医者がいる。私が顔を出すと若いママは、必ず、その病院長に電話する。電話には、必ず院長婦人が出て、

 

  「大成さんですか」とたしかめる。

  「ハア」

と夜中に院長を呼び出す引け目があり、私は丁重である。一度もお目にかかってないが、声は優しい。先祖は毛利藩の家老であり、美人と聞いている。電話と電話の応接だけであるが、私を信用しているらしく、医者先生は間もなく、赤いスポーツカーで疾走してくる。

 

  ママは店を閉め、三人はまずスタンドに、それから北の端から南の端まで、赤いノレンのオデン屋を、一軒一軒飲み歩く。医者も私も千鳥足だが、ママは酒豪である。

 

  勘定は割り勘でありこの鉄則は五年間守られている。割り勘といっても、高いのは医者、中間が私、ママが一番安いのは、所得とメンツに応じた割り勘である。大いにメートルがあがり、宇部から秋穂の秋穂荘に、エビを食いに車を飛ばす。ママは

 

 「エビは、思春期には堅い殻をぬぎ捨て、裸で抱擁するのよ、殻のない、ブヨブヨしたのがいるでしょう、あれよ」

とエビの恋を語っている。私は庭に出て、月下に展開する名田島農場一帯を眺め、かってそこで戦った思い出にひたる。名田島開拓地の農業所得者が結束し、山口税務署と対決す。

 

  時は、昭和30年10月25日未明、山口旧練兵場には、警官隊80人、税務職員120人、総勢200人はひそかに集合し、30台のトラックに分乗し、小郡街道の朝風をきって突入し、八時を期して、一せいに各農家を襲う。百姓たちは不意打にろうばいし、この電撃作戦は見事に功を奏し、押収の米俵をトラックに満さいし、がい歌をあげて引きあげる。

 

  総指揮官は、鈴木直税部長と遠山徴収部長であり、作戦は、綿密周到をきわめ、徴収の者は釣竿をかつぎ、漁師に化けて動静を探ていし、直税の者は山頂より望遠鏡で敵状を監視する。

 

  前夜、かめ福別館は、女中をさけて密議し、あたかも、四十七士の、義士の討入りの現代版である。そして、職員は大東亜戦の生き残りの強者ばかりで、実戦の経験があり、

 

かかる、戦いにはなれていた。戦後の税務職員は、単なる公務員ではなく、税金攻勢の防衛の一兵士であり、ときに武装なき軍人となり、祖国の建設にてい身したのである。

 

  直税、徴収一体の名田島作戦は、戦後の混乱な、税制の終止符となった壮挙であり、本庁においても高く評価し、我が国税史に輝かしい一ページをかざるものである。

 

  これに参加した者はだれが言うとなく、名田島の合戦と呼んでいる。私はひとり当時をしのび、深い感慨にひたり、いつもでも中天の満月を仰ぎ、思わず一句、口ずさむ。

 

  ◎ 寒夕月 波に音なき 周望灘 と !!

 

  岡山の現金屋、下関の駕虎、呉の山村さんは、中国地方のボスの三巨頭である。山村さんは、色白のやさ男で、ピストル乱射事件の、共政会の親分とはどうみても思えない。

 

  広島東の一職員が、借りた車で組の若者をはね、入院二十日間のけがをさした。

 

  親分の山村さんに詫びにいくと、

 

  「交通事故はお互いさま」

とむずかしいことは言わず、さっぱりと了解してくれた。

 

  「子分は五百人いる。いざといえば命を投げだす者は四、五十人はいる」

という実力完備したボスの大統領である。

 

  下関の親分は、顔に刀傷があり、にがみ走ったいい男だが、人と話すことがきらいらしく、私を朝から晩まで応接室に待たせ、一日中、奥の社長室にこもって出てこなかった。

 

  岡山の親分は、みずから××屋と称し、市会議員であり、力と顔で地方に君臨し、いつも二号のところにいる。私が行くと

 

 「あんたか、上がれ」

  「上がらん、税金を納めよ」

 

  「あがらんと納めん」

  「あがれば、納めるか」

  

  「まあ、あがれ」

という、奥座敷に案内し、彼は、どっかとあぐらをかく。私もあぐらですわる。

 

  やくざに対するには、動作も言葉も、やくざにならないと、勝負は出来ぬ。

 

  若い女が、お茶を運んでくる。

 

  「ビールをもってこい:

  「ビールは飲まん」

 

  「ビフテキをとれ」

  「ビールもビフテキもいらん、税金を納め」

 

  「おれのビールが飲めんのなら、税金は納めん」

  「飲むと納めるか」

  「まあ、飲め」

とビールをつぐ、ビフテキも出る。

 

  「酒は弱いな」

  「ウーム、昼は酒は勉強しとらん、夜なら、なんぼうでも飲む」

と、私は負けていない。

 

  「お前も飲め」

と、親分は若い女にすすめる。女はグイグイ飲む。あまり若いので女中と思っていたが、二号である。彼は六十に近い。女は二十四、五歳だろう。あかぬけた美人である。

 

  「この時計はいいだろう、これのも同じだ」

と、腕の金時計を見せて自慢する。女の白い腕に金時計が光っている。

 

  親分は仲のいいところを見せつける。私は

 

 「フーム」

と鼻で笑う。

 

  「そんな金があれば、税金を納め」

という。その時、玄関に声がして女は出て行く。

 

  「子分の松が、スイカを荷車一車もってきた、もらっておけ」

と、親分はおうようである。そのスイカを食っていると、

 

  若いいが栗頭の青坊主がはいってくる。

 

  「親分、帰りました:

  「ごくろうだった」

 

  「これに三万円やれ」

  「姉ご、ありがとうございます」

と、刑務所から出てきたばかりの男は、二号の女を伏し拝む。

 

  小説や芝居のやくざの世界が眼前に展開される。妙なもので私も親分になった錯覚をおぼえる。

 

  「税金は」

と、鋭くつめよる。

 

  「子分に、金がかかる」

といい、

 

  「明日なんとかしよう」

という。私は本意なく宿に引き揚げる。ところが、その夜、神様も予期せぬことがおきた。

 

  同行の大河原君が、夜中に心臓まひで急死したが、そばに寝ていた私は、翌朝目ざめて、冷たい死体にふれ、がく然とし、息の根がとまるほど驚き、悲しみ、血が逆流し関節が痛みふるえた。

 

  めったにないことであり、そのときのことは、言葉にも筆にも表現し得ない。

 

  親分の税金はそのままにし、大河原君をねんごろに葬る。今でもあのとき、そばに寝ていて、死なしたことに深い罪と悔いを感じている。