11 『 ケネディ大統領 』

 尊敬するケネディ大統領様。

 

 閣下の厚い信仰心と、深い道義心に訴え、貴国サンフランシスコ郊外のアルカート刑務所に反逆罪で死刑囚(現在は終身刑)として服役中の日本人二世、川北友弥氏の早期釈放を、僭越でございますが、嘆願します。川北氏は、日本人として母国のために学徒出陣し、上官の命令で、貴国捕虜がタバコを盗んだのを譴責するために、ビンタを三つほどくだえたのです。

 

 日本ではビンタの二つ三つは取るにたらないことですが、川北氏が、たまたま二世であったので、同胞の捕虜を虐待したということで、反逆罪に問われ、絞首刑を宣告されたのです。川北氏の父は驚きのあまり半狂乱となって悶死し。母は重病の身をおして、我が子を救うため来日し、助命嘆願の署名を求めて巡礼中、四日市ではかなくも絶命されました。

 

 無念の涙をのんで、我が子を救い得ず、悶死された両親の心を思うと、胸が迫るものがありあます。

 

 当の川北氏も天涯の孤児となり、その身は獄舎の土となる運命とは誠に悲痛であり、誰か暗然とならざるを得ません。米国は日本と国情、人情、習慣が相違し、おのずから刑罰の対象も異なると思いますが、日本ではビンタは昔の軍隊や学生間では日常茶飯事の事とされ、行儀作法のシツケであり、愛のビンタとしてなぐる方もなぐられる側も観念していたものであります。

 

 大統領閣下に申しあげにくいことを申して恐縮ですが、実は私もマニラ埠頭で貴国人捕虜二人に強いビンタをくわえました。なぐった行為は今でもよいこととは思っていませんが、なぐらざる得なかったいきさつと、日本人には愛のビンタが行われる、という事実を認識して戴いて川北氏の釈放がたをお願いする次第です。

 

 昭和一九年六月の某日、私(上等兵)は一人で捕虜一二〇人(マニラ埠頭米人捕虜収容所三六〇人の中)をつれて、第一号桟橋で荷揚作業の命令をうけて作業中の事でした。

 

 荷物は二米平方位の梱包で、なかには梱包が破れて中身が出ているのもありました。中身は純綿のアンダーシャツで、しかも色鮮やかな赤黄緑の原色で占領地の住民向けの品物でした。

 

 私は内心、物資不足の日本に純綿品が輸送船一杯にあることに驚き、正直なところ二、三着欲しいなあと思いましたが、仕事中の捕虜たちは私以上に心を踊らしていました。

 

 ここの捕虜は香港海兵隊の強者ばかりでしたが、日本軍は衣服はもち論チリ紙一枚も与えずシャツは破れ、靴は破れて、裸身裸足というみじめな姿であったので、この美しいシャツが欲しくてならないのです。そのことが彼らの動きや目の色でよく分りました。監視と警護の大任がある私ですが、わざと遠くに離れてバタアン半島のナチブ連峯を眺めておりました。

 

ところが一人の比島人監視員がシャツを手に持って二人の捕虜をつれてきて

 

 「この二人がシャツを盗んだ」

 

と言います。私は-コヤツ、余計なことをする-と思ったが、そんなことは顔にあらわさず、内心当惑し-上官に報告すれば厳罰で、少なくとも一週間の重営倉だ-とふびんの情が湧き、といって、このままではすまされず、目の前の二人は私より一尺も高く雲をつくような屈強な男であり、数秒間心が動揺したが、

 

 「そこへ座れ」

 

 二人を座らせ二人の顔を思いきり、二つずつビンタをくわすと、私の心はそれでホッとしました。二人もホッした表情で、低く頭を下げて、もとどおり作業にかかりました。

 

 二人の盗んだシャツは比島人の監視員に

 

「もとのところへ返しておけ」

 

と吐くように命じ、-これでいいんだ-日本の兵隊さえ軍用品を盗んでいる。碇泊司令部の某予備将校は、ひそかに重油を土民に売って、大金を内地の妻子に送っていたのが憲兵隊に暴露して、軍法会議に回った。困っている捕虜の盗みを一兵の自分の判断で許してもよいであろうと、自分自身にいいわけをしました。

 

その夜八時ごろ、衛兵所から電話で呼び出され、軍装していくと、石川軍曹からいきなり

 

「この馬鹿野郎」とビンタを五つ六つ喰い、

 

 「ハア」と緊張したが、まさか昼の事件が暴露するとは思えないのでなんのことか見当がつかない。

 

 「任務中におきたことはなぜ上官に報告せんか」とまた前にもましてひどくなぐられ、

 

 「ハイ」といって謝る仕方がなく、どうして、ばれたのかと不審に思っていると、軍曹は

 

「お前、今日埠頭で比島人監視員にシャツをやったか」と聞く。

 

 「いいえ」

 「嘘をいえ、監視員はお前からもらったといって腹にシャツを四枚まいていたぞ!嘘か」

 「ハイ」

 「そうか」

 「捕虜がシャツを盗んだのを、なぜ報告せんか」

 「申し訳ありません」

と詫びました。比島人監視員は捕虜が盗んだシャツを現場にかえさず、自分の腹にまいて、営門を出ようとしたが、身体検査され、私にその罪を転嫁しようとして、昼の事件がすべて発覚したのでした。

 

 私は直ちにをの二人を出せと命令され、非常呼集をかけて三六〇人を整列させ、暗いなかを懐中電灯で首実験したが、皆おなじ赤ヒゲの顔であり、わからないので私は、

 

 「この中に今日シャツを盗んだ二人がいる。列から出ろ」と捕虜の副官に号令をかけさすと、二人が出てきました。捕虜の週番兵が二人をひどくなぐり即刻営倉に入れました。その二人は私になぐられ週番兵にも殴打され、営倉入りとなったのです。

 

 私は軍律を犯した小さな善意が、かえって仇になったと、思いましたが、その善意はその二人も、他の多くの捕虜も認めてくれたものと、今だに思っております。

 

この捕虜のかたがたは無事帰還され、貴国で元気でおられると思いますので、このかたたちについて実情を調査してもらい、日本では愛のビンタを行うことを認識して戴き、川北氏の行為は愛のビンタであるので、どうか一日も早く釈放されるようお願いします。

 

 最後に私は一カ年、貴国の捕虜となり、人道的待遇をうけたが、貴国捕虜は非情な待遇にも文句を言わず忠実によく働いていました。カルンピットで一人の貴国捕虜が逃亡したとき連帯責任として五人を銃殺しましたが、その中の一人は目かくしに応ぜず、泰然と銃口の前に立ち米国万歳と叫んで立派な最後をとげました。また、マニラ捕虜収容所の隊長は暁部隊マニラ碇泊司令部で日本からの情報を盗み(隊長は毎日碇泊指令部に出入りしていた)、比島の水先案内人と内通して、日本の輸送船の動きを知り、バシー海峡とマニラ湾入口での、日本船団撃沈のかげの功労者となりましたが、これがばれて銃殺されました。

 

 おそらく貴国の太平洋戦史に、こんな立派な軍人がいたとは記録されていないと思い書きそえます。

 

 海戦の勇士であり、九死に一生を得られた大統領閣下の厚い情けにすがり、私の願いが必ずきき届けられることを期待し、大統領閣下のご健康をお祈りいたします。

 

                                                       敬具

 

あとがき

 

 この一文は昭和三十七年に書いたが、川北氏は三十九年に宥されて無事帰国した。この日本における身元引受人は佐藤首相夫人である。

 

 私は同氏救済の署名運動をしていたので河北氏より礼状を頂いた。

 現在川北氏は熱田にいられる。