7 『 戦場の山ヒル 』
私の出征風景は、まるで債鬼に追われて逃げる破産者であった。
だれ一人の見送りもなく、妻がただ一人悄然と、駅のホームで蚊の泣くような声で
『元気でね』
と悲痛に言う。軍が日米決戦をひそかに企画していた昭和16年10月3日、極秘のうちに動員召集をうけた私は、平常服のままで、奉公袋も人目につかぬようにフロシキに包んで孤影愁々として征途につく。
台南二部隊にはいると、同年輩の面(つら)をした者が約百人、烏合のように集まっている。
ふさふさとした頭髪は惜しみなく刈られ丸坊主頭になる。
軍服、靴が渡され、
『大きい』
と文句をいうと、
『からだを服に合わせ、靴は大きい方が楽だ。靴下を何枚もはけ』
とどなられる。軍隊は問答無用である。
夕食の固い麦飯は砂のようにカラカラとのどに鳴って、のどを通らない。
兵舎には寝台はなく、わらを敷いて毛布二枚くれる。馬と同一待遇である。毎日毎日一日中
『前へ、後へ』
と、銃剣術の猛訓練がつづく、
『何くそ』
と老兵は若い現役兵に負けていない。一か月後に突然妻子に面会が許される。
僅々30日であるが十年も待っていた恋人が来るのに似たうれしさである。
妻子にはもう会えず、秘密裡に戦場に送られるかと悲しい決意をしていたので、うれしさは格別である。
『大成二等兵、面会』
と伝令がくる。飛んで営庭にいくと、
多くの面会婦人の中にわが妻が美しく光っている。
幼い児は丸坊主頭の父をみて、けげんな顔をするが、なつかしくて三人が手足にまつわりついて喜ぶ。妻の手製のボタ餅、巻ずしが美味しく舌が鳴る、
『とうちゃん、大丈夫か』
と、妻は心配顔である。
『大丈夫だよ。俺も日本男子だ。敵の首の一つや二つは土産に持ってかえるよ』
と、極めて意気軒昂である。話しはつきない。婚約時代の恋人のように私はウキウキしている。
そばでは、同じ分隊の立石も美しい奥さんと楽しそうに、目尻を下げて話しに夢中である。
つまは、幼い児がいるので、早い汽車で帰る。
狩股班長が、
『楽しかったか』
『ハイッ』
『美人か』
『イイエ、ちがうのであります』
と、直立不動で答える、立石は面会時間一ぱい楽しくしてきたが、班長は機嫌がわるい。
『お前何を話していた。めめしい奴だ』
と、いきなり立石の頬にビンタが飛ぶ。
翌日、銃剣術と軍靴の検査がある。立石と私は軍靴の底に打ってあるビョウの割れ目に一粒の砂があるといって不合格を宣告され
『靴をくわえて営庭を一周せい』
の命令である。仕方なく靴をくわえて、犬の如く、広い営庭を馳け足で廻る。
他部隊の兵隊がおもしろそうに眺めている。
立石は応召前、中学校の教諭、私は県庁の中堅官吏であるので心中ばかばかしいと思いつつ一周する。
『おそい、もう一周せい』
とこんどは班長が先頭に立って疾走する。三六歳の老兵は鼻で息をし、駄馬のごとく走る。
私は数日前、入浴中にフンドシ、股下、軍服を盗まれ、フリチンで分隊に帰ると
『間抜け野郎、盗まれたら盗みかえせ』
と、大ビンタをくらいその追加罰であり、立石は昨日妻との情緒めんめんたる面会が長かったので、その罰である。
大岡昇平氏の『野火』は比島戦終末のみじめな日本兵の姿を描写的に見事に書きあげている。
私自身飢えて野良犬のごとく、ドブの中に落ちている人糞のにおいのする、釈迦頭という果物を食い、米兵の捨てた腐った牛かんをも食う。『さくら兵団』の工兵は蕃山の生娘を殺して食い、ゴロテ族に強い怒りと恐怖心を与え、親日的感情が一変して親米的となり日本兵の動勢を内通し、そのために逃げるさきざきで米空軍の爆撃をうけ多大の犠牲者を出した。
映画『野火』が封切られるとすぐ見に行く。雨の中を、戦闘意欲をなくした日本兵が、敗惨兵のごとく映画を幾度か通る。衰弱した兵は力つきて雨のぬかるみに行き倒れる。
私は、われを忘れて画面の中に私がいるのではないかと食い入ってみる。実写でないので、いるはずはないのであるが、当時の情景そのままであるので、つい画中の人となっていた。
転進、転進で篠つく雨の中をそんな日が幾日も続いた。
敵状偵察に出て、ある山中で道に迷い夜となる。雨は降りやまないし、雨宿りする大樹も岩かげもない。雨は山肌を滝のように流れるので横になることもできない。
四人は飯ごうを尻にしいて、身体を抱き合って、一夜を明かすことにする。
鉄かぶとをかぶっているので頭はぬれないが、日本軍の雨がっぱは粗悪で、ざるのごとく体の中を雨が流れる。深山の夜は不気味にふけるが眠れない。川越大尉が
『おい、大成、お前子ども何人か』
と私にきく
『三人であります』
『お前はいいことをしたが、俺は新婚の味を知らない。奉天で芸者と遊んだが、たわむれの恋であった。あいつが貴方の子どもができたと腹にざぶとんを巻いて妊娠したと言ったときは驚いたが、結局俺は戦争のために生まれ、恋もせず女も知らず死ぬのだ』
と二六歳の青年将校は嘆く。
もう最愛の妻にも、愛児にもこの世で会えぬと観念し、断腸の思いでいる私も苦しいが、お国のために若い命で散る彼もまたあわれである。
いつしか四人は雨の中に抱き合ったまま眠る。暁に目がさめると、幸い雨は止んでいたが、片方の目が開かない、耳の中にも何かはいっている。鼻の中にも何かいる。初年兵の片岡の目からは一筋の血が流れ、三島伍長も目をやられている。濡れたシャツをぬぐと、千人針の腹巻が真赤な血で染まっている。四人とも血だるまで、山ヒルに全身をやられている。
足や身体に吸着しているヒルはもぎ取れるが、目と耳や鼻の中の肉の弱い部分に吸着したヒルは絶対に離れない。ヒルが満腹して自ら離脱するのをまつより術がない。
血を吸い満腹したヒルが足もとにラムネの球のようにころころ転んでいる。軍靴でつぶすと赤い血が地上に染まる。
ふと気がつくと風もないのに付近の山草がざわざわと動く。血のにおいをかいで、一山のヒルが大挙襲来してきたのである。われわれは草を分け木を分けてその場を逃げたが、あんな恐ろしいことはなかった。
川越大尉は元気で帰還したので、今は幸福な家庭をつくりざぶとんをまかずに、ほんとに奥方の腹を大きくしていることだと思う。