3 『 百人斬り 』
将棋は小学一年のとき見よう見まねで覚え、へたな碁は同僚と白黒の石がきをつんで覚える。
マージャンは、昭和初期は亡国遊戯とされ、一般は敬遠していた。
わたしもそのひとりで、同僚に勧誘されるが、仲間に加わらなかった。ところがマージャンを知らないために、思わぬ災難が降ってわいた。
そのころ、私はほとんど年中出張をしており、宿で仲間はマージャンにふける。
私は宿の女中相手にポツリポツリと飲んでいると、
「オイ、先輩を案内せよ」と、みんな田辺上司の、世にもまれな悲願達成に側面的な応援をする。
「そんな魔窟は知らん」と、逃げるが、田辺先輩はもやもやしている。
この上司は総督府より監督にきている判任官二級のえら方であるが、稀代の色魔狂で、あと十数人で悲願達成する。
芸者、私娼、A国娘、B国桜と、男盛りを夜な夜なしし奮戦し、志を立てて数年にして、すでに八十有余人の女をなで斬った。
そのころのA国は、嫁になると貞操は堅いが、娘時代はルーズであり、茶摘みに出かせぎし腹に宿した女児は金になった。
すげがさをかぶり、A国おしろいをぬり、陽気に茶摘み歌を歌う。
♪あなたの坊やが口からいでて背中をたたく、今夜もおいでよと、男を招く。田辺先輩は五円札を服裏に貼り、チラチラ見せる。女は黙ってついて行く。
ある日、大事件が起きた。
先輩と娘が山陰の草むらで抱擁しているその最中。突然銃声一発、娘の足の親指先を弾丸がかすめた。娘はぎょうてんし悲鳴をあげて、下半身裸身のままわめき狂う。紅顔無類の色道先生も、逃げるに逃げられず困りはてる。
A国女の靴は黒く、つま先がとがり、そこに白と赤糸の刺しゅうがあり、草むらよりその部分がのぞいていて、遠くから見ると、キジの頭に見え、しかもピクピク動いていたから、猟師はキジとまちがえて撃ったのである。
ある夜はういういしい娘と思い抱くと、肉の枯れた老婆であり、また、性病にかかるなど、百人斬りの成就は楽ではない。
山中のいなか町は外灯はなく漆黒のやみである。
宿の女中に道順をきいて行くが、くらやみの中の私娼を捜す道案内はばかげていて、足元もあぶなく楽ではない。かつはトリコになる危難が伴うから、やみの中で先輩と娘の取り引きが成立するや、いちはやく逃げかえる。
次のいなか町に移動するとまた、わたしは案内役をせねばならぬ。
ここにおいてマージャンの必要性を知り、本を買って仕事以上にマージャンを勉強する。
新婚当時、悪友はわざと私を誘い、夜ふかしを強要し、新妻を孤閨に泣かしめる。
もしも百人斬りの先輩がいなければマージャンは知らないかも知れぬが、マージャンで命拾いしているから色道無双の先輩は恨めない。
終戦のとき
フィリピン山脈中の栄養失調となり歩くことが出来ず、戦場に捨てられるところをマージャンで親しくなった長田軍医の助言があり、戦友に背負われて山を降り、米軍の捕虜となり、一命が助かる。
一方の田辺先輩は引揚船の中で、梅毒が頭にきて発狂し、投身自殺したという。
4『妻を抱く』
石坂洋次郎さん、火野葦平さん、今日出海さん、画家の向井潤吉さん等の報道班員十数名が
ぎこちなく二列に並んでいく。白く冴えた月は煌々(こうこう)と焦土と化した戦野を照らし、一大決戦を数日後にひかえたバタン半島は粛然として声なく、無気味な沈黙の底にあった。
当直将校が、
『東京でみる月、輸送船の上でみる月、この硝煙の戦場でみる月は、それぞれ感慨がちがうであろう』
と、重い声で文士たちの胸に釘をさすような名調子の訓示をした。昭和十七年四月初旬の
ある夜のことであった。一流作家これらの諸先生もわれわれとおなじ兵隊服をき、戦闘帽をかぶって、全くの一兵となっている。
石坂洋次郎さんはデング熱にやられていて、ひとしお弱々しい感じであった。今は亡き火野
葦平さんはさすがに大陸の勇士で兵隊ずらをしており、現地の戦記文も鮮烈で印象的であり、
『バタン戦場』という一文はいまだにところどころ記憶が脳壁に焼きついている。
戦友だった巡査の奥寺、画家の安田、中学の先生の立田たちは月光の下で諸先生と一刻の文学談をしていたが、私はその中には加わらず、ただ一人で地上に横たわり、月を仰いで故国をしのび、母を慕い、妻を恋い、子を憶うていると、涙が滂沱と両頬を伝って流れ、首の奥まで流れ落ちていく、深い悲しみであり陶酔の悲恋の歌である。
昭和の巌窟王、吉田石松老は冤罪(えんざい)で二一年獄窓の月を無念の涙で眺めたであろう。私も罪なき罪で比島の捕虜収容所で三日間営倉に入れられた。
まったくの二重捕虜であった。バタン半島で捕虜となった米軍将校が収容所長になり、
『新潟の炭坑で野良犬がごとく虐待をうけた、この仇討をする』
と宣言し、復讐の鬼と化した。
私の場合は行進中に作業用のエンピを肩にかついでいた命令違反だ、十分前に右手にもつようにと変更し、厳命してあったという。
『そんなことはきいていない』
と抗議したが、鶴の一声であり仕方なく捕虜第一号の営倉罪となり、泣いて営倉にはいった。
二重に張った鉄条網が重く威圧する。夕べとなり暗いとばりが襲ってくると妙に心がめいってくる。これは獄舎にはいったものでないとわからない心境である。
孤独、孤愁、孤怒、孤憤、絶望、はては烈しい恋慕となった。折から月の光が獄舎の周辺を明るくすると。やや、この焦燥の心はなごむが、じっと月を仰いでいると、心の底から涙がジワジワと目にあふれて出る。
たった一人の世界であるので、涙はだれにはばかることなく、両眼から両頬に一線を引いて流れ、首の奥まで流れていく。熱い涙はポタポタと大地にしみこんでいく。思わず。『ああ、かあちゃん』
と男心が恋慕の叫びを発し、ハッとわれにかえるが、
声なき廃声は夜の闇の中を黒い玉となってとんで行った。
やがて涙がとまると心は清々として、冴えた月のように身も心もすがすがしくなる。涙こそは一切の苦しみ、悲しみ、怨みを流し去るものであり、
その愛を清め、愛を深くするものである。
私は臆病な兵隊であった。敵弾がこわかった。死がこわかった。
死が命を絶つ観念より『死は痛くてさびしいものだろう』という不気味な恐怖におびえていた。
『第一回』のバターン戦のナチブ渓谷で百数十発の集中砲火をうけ、木にかじりついてふるえていた。
敵の二連砲が連続的に的確に大地を砕き、岩片や土砂がうなりをたてて襲いかかる。一つ二つと数えていたが五五、六十弾目からは『もうやめてくれ』といういのちの願いであった。百二十発まで数えたが、あとは放心状態となっていた。二十数人が戦死し、数十人が負傷した。
無傷の戦友も、顔面蒼白となり自失していた。
それから六十余日後の、昭和十七年四月八日未明、
皇軍最後の総攻撃が兵十万をもって火ブタを切った。
その前夜、第一線基地のオラニーに、報道班の佐官級の赤帯をした作家、尾崎士郎氏が当番兵とすぐ隣に宿営した。
兵全員に「最後の手紙をかけ」という指令がでた。
戦友は神妙に妻子に遺書を書いていた。遺書は夫婦愛の最高表現をつくすべきであるが、堅苦しくなりがちである。それで、遺書としての価値が高められるのであろう。
私は出征のとき父に「妻子を頼む」と遺書を残し、妻には輸送船中で心情を書きおくっていたので、さらに書くこともなく、生を断念し、死を覚悟して氷のように冷厳であった。
今生(こんじょう)の願いとして、砲火の中で折にふれて詠んだ俳句をみてもらいたく先生の宿営を訪れた。窓の月明りで、一字一字拾い読みされ、
「実感が出ている、陣中新聞に出せ」
「いいえ」
「名前は」
「一等兵だ」
と名を告げず礼をのべて別れたことが偶然に戦時中の国語教科書にそのまま採録された。
これを私はまったく口外せず、長く秘密としていたが、一昨年NHKの『私の秘密』に招かれて、尾崎先生と十七年振りの劇的対面となり、戦場に咲く佳話として多くの視聴者が感動した。
私は小学校のとき級長になったが、別に誇りとせず、親にも言わなかった。
尾崎先生にも名前を言わなかったのも、明日死ぬいのちという観念と子どものときからの心の習癖がそうさせた。
この心が『床しいこころ』として教科書に採録された。
敗戦により一切が過去の夢となったが、私には貴重な財産であり、心の支柱として清く豊かな人生へのあと押しをしてくれるのだ。多くの人は戦争ですべてを失ったが、私は弾雨の下で人間の真実を拾い、生が、いかに壮厳であるかを知り、一呼吸一呼吸に生きている法悦を味わいつつ、心楽しく今日を送り、明日を迎えている。
戦場の夜は総攻撃を前にして無気味に沈黙し、遺書を書き観念した戦友はしずかに眠っている。私は心がさえて眠れない。隣の立石も眠れないようだ。彼も妻子のことを憶っているのだ。私の思いも遠く妻子の上にあり、初夜のおごそかな情事、喧嘩して泣いたあとの妻の美しい顔。三人のどものことが、まざまざと浮ぶ。
胸に秘めた妻の写真をしっかり抱き、唇をぬらして、あたかも妻を抱くようにすれば、夢うつつの中にも妻もじっくり私を抱き、そのまま夢幻の境に入る。
翌未明一切の軍装具を捨て、身一つに手りゅう弾と工兵用具を負い、暗夜の敵陣めがけて突入する。夢で抱いた妻の体温をしっかり抱いて・・・。