1 『 税務署を焼打ちにする 』

 そのころ、私の机の上には、毎日毎日税の不平、不満、呪詛、はたは恐迫の手紙が殺到し、山のようになる。

 フィリッピンの戦場の砲弾下に六年もいて、悪運強く九死に一生を得て帰還したが、闇屋となることを潔よしとせず、ふるさとの島で半年ほどぶらぶらしていたが、妻子をかかえて無為に遊んでもおれず、忠海署(現竹原)につとめると、物資不足で闇横行の世間よりも、税務署は税金の取立で戦場さながらである。

 

 鶏三羽、柿ノ木一本に所得税を課し、そのうえ増加所得税という全くわけのわからぬ税、それに非戦災税という百姓いじめの税を、二重三重と取立て、日本開びゃく以来の苛れん誅きうで、慄然とするほどである。

 

 ある戦争未亡人が、

 

「私は商いもせず、闇もしてないが、なぜ、所得税が課かるのか」

 

 と、いって税務署にくると

 

「お前は、着物を売ったであろう」

 

「ハイ、嫁入りしたときの晴着を百姓さんと米にかえました」

 

「その税金だ」

 

 と、税務署員は、昂然といい、税金を納めるのは当然の義務だと、いう。

 

 終戦後は、誰れもが家具を売り、着物を売りて、米や麦を買い、生きていたので、税務署員が、あてすっぽにいっても該当しないものはいなかった。

 

 戦前台湾総督府で税務事務をしていた私は、所得税法にいう所得は、そんなものではないと、承知はしていたが。

 

 局の署長会議で割当課税を強制命令されるので、第一線の税務署は無理を承知の上で理不尽な理由をつけて、課税せざるを得ないのである。

 

 忠海署の昭和23年度の割当課税額は、3億2千万円を仰せつかる。これは忠海署が、当時の管内の経済状況を勘案して試算して内申した徴税額よりも6千万も多い、当時の物価と、いまの物価指数を4倍とすると、6兆円という天文学的数字の水増し課税であり、否応なくこれを納税者に押しつけた。

 

 いまは回顧して、よくもかかる暴挙をなし得たとおもい、一幹部職員として、その責を免れ得ないものがある。

 

「下手な鉄砲もかず打ちゃあたる」といい、一人の納税者に二通も三通も決定通知を発し、文句をいってくると、

 

「一番高いのがほんとうだ」

 

 と、平然といい、押しつけた。

 

 それでも納税者は、「日本は敗けたのだから」という屈辱心と、もう一つは税法を知らなかったから、税務署の無茶苦茶なやり方がまかりとおった。

 

 しかし、巷には税の不平、不満、不公平、怨嗟、呪詛が、村や町に溢れ、充満し、町民は大挙して税務署に押しかけ、有力者は文句をいってきたが、一般の弱い納税者は不満やりかたがなく、ハガキや手紙で、税の減額を歎願し、

 

「この高い税は納める力がない、首を吊るよりほかない。税務署の松の木に首を吊って死ぬ」

 

 と、いう手紙が同一人から二回も三回もくる。

 

 また、傷イ軍人らしい人から

 

「喰うものもなく、骨と皮の私は破れた古障子であり、一文も金はない」

 

という手紙もきた。

 

 ひどいのは「税務署を焼打する 天誅組」という恐迫の手紙が各地からくる。

 

 これは同一の文句だが、皆筆跡が違っていたから、申し合せて、税の不満のある者が出したらしい。

 

 この手紙は警察にも行き、警察署長が心配し「税務署は夜間警戒を厳重に、各幹部の自宅は危ぶないから用心してくれ」といい、署長や私の家には警備員を夜間は配備してくれた。

 

 いま、広島市で税理士を開業している当時の所得税係長の某君は、最も恨まれていたので、自分にも用心し寝るときに不意の闖入者に備えて鉄砲をもってねたという。

 

2 『 税務署は白昼強盗 』

 戦後の税務署は現在の五倍も六倍も人員がいた。しかし大蔵事務官と名のつく者は署長以下数名で、あとは新参の少数の年配者と若者である。

 利の気いた税務職員は退職して、闇商人になる時代だから、賢しこくて智慧のある者は、人が憎む税務署員にはならない。

 

 税務署では、ソロバンがいのちであるが、入署した若者は少年兵あがりか、軍需工場で働いていたものばかりだから、ソロバンは勿論出来ず、簡単な手紙でも満足に書けなかった。

 

 毎日毎日、納税者から苦情の手紙が、数十通くる。これは招かぬ客であるが、本人の代理であるから、内容の複雑なものは私が誠意をこめて返信を書く。

 

 簡単なものは、若者にまかす。ところがその返事が奇想天外である。

 

 ハガキの真中に、ただ一行、

 

 『それは第三期分です』

 

と、たった九文字しか書いてない。

 

 納税者の方は、「一期分も二期分も三期分も納めた筈ですから、よく調べて御返事下さい」と、時候の挨拶も書いて丁寧なのに対し、若い署員は、闇から棒をつき出したように、たった九字のこの返事には、流石の私もあいた口が塞からず、思わず呵々大笑いして、

 

『君、これ古今傑作だよ』と、嘆息した。

 

 しかるに、差押になると若者は、勇躍としてトラックに乗り、滞納者宅を襲い、靴をはいた土足のままで座敷にあがり、家財道具一切を差押える。

 

 老婆が一人留守居をし、

 

『息子がいないので税金のことはわからないから後日にしてくれ』

 

と、泣いて懇願するが、

 

『税を滞納するものは国賊だ』

 

と、おいすがる老婆を押しつけて仏壇を除いたタンス、着物類をトラックに満載して意気揚揚とかえってきて、

 

「今日は大成果だ、呑みましょう」と、強要する。当時酒は配給制だが、配給の実権を税務署が握っていたから、夜は若者の労苦をねぎらい、私の家で妻や幼い子供らが接待さして呑む。

 

 心中に、これは山賊の酒宴であり、その頭目は「私だわい」と、苦笑しつつ呑む。

 

 ある闇屋の埋蔵物資と家財を差押えすると、河内町の公民館に一杯あり、現在三原で税理士開業の山本君が、この処分にあたり。

 

「サアーサアー、差押品の大廉売だ」

 

「買った、買った」

 

と、まるでバナナ売りのごとく売り、二日で大量の差押の軍服や毛布類を売り捌いた。

 

 ときには税務署の徴収簿のミスから税金を納めていたのに、これを十分調査せず、家財道具、畳、寝具を差押えて引揚げると云う暴挙もした。

 

 この税務署の非人間的な横暴に対し、町の辻々に「税務署は白昼強盗」という貼紙をデカデカとするが、

 

 差押トラックは日々町を襲い村落を襲い、島の満納処分は、とくにデモンストレーションをし、昔でいう千石舟に、その船腹に、「差押物件引揚船」と、大きな横断幕を張りてエンジンの音高く島を襲うと、「海賊船」がきたと、島人は恐怖し、隣近所から金を借り納める。

 

 だが、豊島の漁民は暴れん坊で、巡査を海に投げこむという無法地帯には、税務署の若い者も、さわらぬ神にたたりなしと、放任しておくと、米将校がきて喧しくいう、私は冗談に、

 

海防艦を借せ、それで乗りこむ」というと、OKという。

 

 翌日、呉のGHQの本部に赴き、約束の軍艦を借りにきたというや、

 

「馬鹿者め、日本のことは、オ前等がやれ」と、一喝を喰う、今まで張りきっていた己れを反省するとともに、いまにみろ、日本を再建して、オ前どもを、やっつけてやるという敵愾心に燃ゆ。

 

3 『 ムシロ旗の先頭は税務署員 』

 一介の税吏として17年勤める、第一線の税務署を7署と、国税局に7年いたが、その中で岩国の一年は烈しい反税闘争が全管内に起り、署には、ムシロ旗を立てて押しかけ、署長が町村役場に行くと村民が、署長を役場の庭に呼び出し、土下座して謝れと強要し、署員が調査に行くと村民が大勢で囲んで、吊し上げにするということが、たびたび起きる。

 

 税務署としてはこの反税闘争に敗けておれず、敢然と対抗せねばならぬので、いろいろと辛苦惨憺したので、その思い出が、今も生々しく残っている。

 

 赴任して、内務事務が乱脈で、納税者が泣いて納めた税金の領収書が、未整理のまま倉庫の中に山積しているのに驚く、これは、商人が売掛台帳の整理をしていないのに等しく、未納者に対する処置が出来ない、これはアルバイトを数人雇い、三ヶ月かかり大体整理したが、若い署員はこの盲点を知り、税金徴収のとき正式の領収書をわざと使用せず、自分の名刺の裏に仮領収書と書いて、納税者に渡し、その税金をねこばばする者がいた。

 

 ある製紙会社が、物品税百万円(今なら数千万円)を納付する、これは正式の領収書を渡していたが、この金で税務署の独身寮を買うのに一時立替えている。

 

 これには私も困り果て、思案の末に、署員の川上(共産党員)が、これを知っているらしい、もし世間に知れると一大事だと、国税局に嘘を言って、国税局をおどし、国税局から百万円をとり、これを会社が納めたとして国庫に納めた。

 

 この川上君は、わが国最初の経済学博士で、かの有名な貧乏物語の著者の川上筆京大教授の甥である。

 

 占領軍の米将校は毎週きて、税の取立が手ぬるいと督戦することや、所得税の水増し課税の打合わせをしていることを知り、これを外部反税団体に通報する始末の悪い存在だ。

 

 そのころ、こんにゃくが急騰し、これに対し、ロクに調査もせず、一率に三割増し課税をする。

 

 これを知った共産党は、山地の農民を煽動し、ムシロ旗を押し立てて、その数二百余人が、昔の農民一揆のごとく税務署に隊伍堂々押しかける。

 

 その先頭のムシロ旗手は署員の川上君である。彼はいつも前日に休暇届を出して暴動に参加する。

 

 『署長よ出てこい』と署を取り囲んで叫ぶ、錦帯橋に農民が続々集っているという知らせが、警察署長からあるので、『署長は逃げていて下さい』と頼み、若い署長は出張命令を出し、全部追い払い、女子職員だけを残し、あとは私一人が引受ける。

 

 先頭の川上は、平常は真面目で勤勉で純情な青年であるので、私と心情的に一脈相通ずるものがあり、敢然と一人で応戦する私に敬意を表してか黙っている。

 

 共産党の大幹部で岩国の市会議員である皿田が、不当課税だと叫び、

 

 『税金は今すぐ返せ』

 

と、集った群衆は、ワイワイ騒ぐ。

 

 玄関先に一人つっ立っている私は、唖のごとく無言でいる。

 

 『お前はツンボか、オシか』

 

と。ワイワイいうが、二十分ほど黙っていると、群集はあきれはて、静かになったそのとき、私は大声をあげて、

 

 『わかりました、税金はいま直ちにお返ししましょう、領収書をお出しください』

 

と返答する。

 

 税務署の金庫には一文もないが、200対1では争論しても勝目がなく、また税に文句をいう連中は、大体まともに税を納めない者が多いと知っていたから、一か八かの決戦に出た。

 

 誰一人として納税をしている者はいないから、虚をつかれ、一人二人とすごすごと皆退散した。

 

 あるときは群集に取り囲まれて、こづきまわされて、私の背広の袖をまがれたというひどい目にあう。

 

 小松原税理士(当時二係長)は18回も吊し上げられ、お前は米資本主義の犬だ、と二時間も責められた。

 

4 『 女を利用飛行機納税宣伝 』

 世界広しといえども、飛行機を一税吏が納税宣伝に利用したの、恐らく私一人であろう。

 しかも占領下において、米戦闘機を日本酒二合瓶十二本で。

 

 国税庁初代長官高橋さんは広島国税局から一躍抜てきされて、就任するや、戦後頽廃した納税思想の回復することに、税務行政の一本の柱とされ、自らレコードに吹き込みて、国民各層に日本再建は財政の確立にありと、切々に訴う。

 

 内部的には、全国501の署に納税宣伝につとめるように訓令する。

 

 各署は一斉に納税宣伝につとめるが、税務署員はソロバンは立つが、文章や創作的なことは苦手で、ロクなことは出来ない。

 

 わが署の若い署員は、仮想行列をし、チンドン屋の如く町中を練り歩きましょうという。

 

 私は卑近な迷案と心中おもうが、折角の企画だからと採用し、私も一行に加って、恥も外聞も捨て、町々を練り歩いた。

 

 ふと、近所に住む顔見知りのオンリーをして、愛人の米飛行准尉を口説かせて、飛行機から納税宣伝ビラを散布しようと、奇想天外な妙案が浮ぶ。

 

◎米兵は女に甘い

 

 このことは、勝っていた戦に負けて、バタン戦攻略後、彼等を捕虜として使役し、マニラの埠頭で荷上げ中に軍需品を盗む米兵をこらしめのため、頭を殴るが、背の高い彼の頭に右手が届かず、跪座さして、ビンタをとった。

 

 ところが、主客転倒して、こっちが彼等の捕虜となり、一年間、比島の捕虜収容所で強制労働に服する囚人の身となる。

 

 敗戦国の女は弱く、我が国にオンリーがはい出したごとく、比島でも現地娘が米兵の愛人となる。

 

 比島では現地娘の愛人をオンリーとはよばず、セカンドワイフといった。

 

 このセカンドワイフに米兵は甘く、女が、たのむと、軍用倉庫から盗み出して女にあたえる。

 

 その泥棒の実行者は、作業班長の私であるが、面白半分に、ゴミや廃棄物を捨てに行くとき、そのゴミの下に折畳寝台とか、軍用カンヅメを隠して、ゴミ捨場にトラックで行く。

 

 ゴミ捨場には彼の愛人が待っていて、「サンキュウ」といい、煙草をくれる。

 

 ひどいのは、軍用ジープを売って、その金を女にあたえて、重営倉に入った米兵もいた。

 

 岩国基地の米飛行准尉は、やはり女に甘く。日本娘に口説かれると、

 

 「岩国市長の要請書があれば、戦闘訓練中の飛行機からまいてやろう」

 

と、いとも簡単にゆう。

 

 これは余談だが、空軍将校は、海軍や陸軍将兵に比し、自由裁量があるらしく、日本でも戦勝中はマニラから知人の飛行将兵に頼んで、私の同年兵は、日本に欠乏していた軍靴や綿製の服地やシンガーミシンなどを、台湾にいる妻にとどけていた。

 

 米軍でも、立川飛行場にいた米空軍少尉が、比島の私が服役している捕虜収容所勤務となり、ある日その将校の掃除当番になると、

 

 「立川基地の日本娘から毎日手紙がくる通訳してくれ」

 

という、その中の一通に、

 

 『キャプテンのあなたに似た美男の男の子が、やがて生まれるでしょう。早くかえってね』と、下手な日本字で書いていた。これには私はギャフンとしたものだ。

 

 閑話休題、すぐに岩国市長に要請書を書いて貰い、ビラ三万枚を軽三輪車に積んで、海辺の岩国基地に行き、日本人守衛を通して渡す。

 

 その日の午後、岩国の青空に赤いビラがヒラヒラと舞い降りる、赤いビラには”祖国再建は納税にある”と、

 

 このお礼に酒一打をくれというから、岩国の銘酒「錦帯橋」の小瓶十二本をやる。

 

 

5 『 出雲は税務署天国 』

 ときならぬときに出雲署に転勤の辞令がくる。

 栄転、左遷、横すべりという、毀誉ほうべんの気持はなく。

 

 ”ウン、これはいい”

 

と心中で喜ぶ。

 

 岩国は米空軍の重要な基地となり、米軍将兵のドルをねらって、バーや進駐軍兵士を相手の売春のオンリーが、東京、大阪から流れこんだため住宅難となり、妻子を忠海に残し、単身赴任しての二重生活をしている私には朗報である。

 

 終戦時の税務署員は薄給で、その頃新聞の炭鉱夫募集の広告に、一日千円とあったが、私の月給はをれを僅かに上廻る程度であった。

 

 当時の古い日記帳を見ると、越年資金という名目で、千二百円貰っている。

 

 これは餅代で、苦しいだろうが、餅でも搗いて正月を迎えようという政府の涙金である。 

 

 税務署の構内にある宿直室に寝泊りし、三食は刑務所に差入れする食堂で食い、朝食は囚人用の、麦の冷飯しに茶かゆをかけた丼一つと、たくあんが三切れである。

 

 戦場では食うものがなくなり、草や木の根を食って生きのびた私にはむしろ美食であり、妻子を養うためには、男がその犠牲にならねばという悲壮心をもっていたので極貧の暮らしに耐えた。

 

 出雲は妻の出身地であり、妻の同窓生の今市高女(現在の出雲高校)の出身者は、酒造家や市会議員の妻になっているので、妻も喜び、勇躍赴任する。簸川の近くの民家を借りて住む。忠海でも岩国でも”税務署の奴”と言われ、肩身せまく暮らしていたのに、ここでは”税務署の旦那”といい尊敬する。

 

 宿の隣組の常会にいき、片隅にいると、

 

 『税務署の旦那はん、ご意見はありませんか』

 

と、下座にいる私を無理に上座に坐らせて、意見をもとめる。

 

 広島、沿岸部では、

 

 「オ前ラ、デイムショカ、町をうろうろせず、早く退散せよ」

 

と、まるで罪人扱いであったのが、出雲の国では『旦那さん』であるから悪い気持はしない。

 

 もっとも、裏はあり、税務署員が調査に行っていて、買物客がくると、店の人が、

 

 『いま、お客さんです』

 

と、言えば買物客は『ハア、税務署員だ』と、この客さんの隠語に気づき、買物せず、さり気なくかえって行く。

 

  『旦那さん』と、言われ、米のめしが腹一杯食えるところは、終戦時の日本にはどこもないから、税務署員には、出雲はまさに地上の天国である。

 

 忠海にいたときも、岩国でも、毎月十数通の投書が舞いこみ”闇をして儲けている”『部屋を密かに借している』という投書が、荒々しい文句できていたが、出雲では『そもそも、わが国は瑞穂の国にして、農を尊ぶ、しかるに○○某は、菜・大根の種を闇をしている、税務署は直ちに調査し、これに神罰を加えよ』

 

とある。

 

 神主が神前にて朗ずるのりとに似ていて厳かに襟を正して読まざるを得ない投書で、流石に神国であると、測々とおもい感動する。

 

 出雲大社の境内には、神在月には全国から集る諸々の神様の宿泊所があり、また罪を汚した神様を入れる牢獄もあり、その牢獄には年中鍵がしてある。また出雲大社には神様に捧げる御酒を四斗に二本だけ作ってもよいことを税務署から認可されている。これは全国的に珍しい。ともかく出雲は税務署員の天国で夢と詩にあふれていた。

 

6  『 銭三千枚税務署中ばらまく 』

 山陰は、晩秋から翌年春までは、曇天の日が続き、雨多く、雪の日もあり、山陽から移り住むと、頭から黒布をかぶされているようで重い気持だが、住みなれてみると、米、野菜、魚とおおく、サバは最盛期は、とれすぎて、さばききれず、トラックに満載してき百円でバケツ一杯くれる。

 人情厚く、茶を好み、皆親しく集い、長談をして半日過す。また昔ながらのお祭りごとが多く、古い日本が、いまもそのまま残っている。

 

 税務署員は、殆んどが、ここの出身者で、朴訥で真面目でよく働く。

 

 前任地の岩国で、徴収成績をあげるための手段として、各人ごとの税金集金高をグラフに示し、その効果をねらう。

 

 すると、若い署員は大口滞納者ばかりを目当てに歩き、小額のものは放置する。

 

 午前中、大口の集金が二、三軒あると、午後はパチンコ店で遊び、五時の退庁時に帰署し、

 

「今日は困難な大口者を苦労して口説き、とても疲れた」といふ不届者もいたので、私は自転車で、市内のパチンコ店を廻り、監視せねばならなかった。

 

 小口の滞納を整理するため、内務事務もしている女子職員が、十数人いたのでその同意を得て、二人一組で各戸を訪問することにする。

 

 萩男に岩国女といい、岩国は美人の産地で、署の女子職員も皆妙齢の美人だから納税者は歓迎し、男子職員より成果があがる。

 

 ところが、国税局は、全国に例のない女子職員の集金集めは、婦女虐待だと、いうお叱りがきて、この妙案を中断する破目となる。

 

 ムシロ旗の攻勢には一人で応戦し、内に眠る力を利用しようとすれば抑圧されては仕事にならない。

 

 神の国出雲でも、税に対する不満は出雲平野にみちている。農家は家族が食う米も所得対象だから、現収のない農家は税が納められない。一老人がやってきて、課税の内容も知りたいというので、親切に「食う米にも、税金がかかるのです」というと「ハア!」と、私の前に土下座したのは、土下座された私の方が驚く。

 

 こんなハガキもきた。 

 

 『喰ウモノヲ喰ワズ、税金ヲ納メタノニ、アリガトウトモイワズ、ウスツベラノ紙一枚クレタ

 

 と、そのころの税金苦と、税務署員の行状を、この片仮名の三十文字をもって言いつくしていて、私は槍で心臓を突かれたおもいをする。

 

 平素、職員には納税者に丁重に接するよう申し渡しているが、不親切な職員がいることを恥じ、すぐ三輪車を飛ばし、ハガキの主の平田町の魚屋の主婦にお詫びに行くが、主婦は、ツンと顔を横にそむけ、主人の方は遠方のところをと、恐縮する。

 

 出雲市のある風呂屋を差押えすると、その主人は不満やるかたなく釣銭用の小銭を布袋一杯つめて署にきて、

 

 『サア、一円、五円、十円玉の小銭が、三千円ある、これを受取れ』

 

と、いきなり袋の中のアルミ貨と銅貨を鷲掴みにし、署内中ばらまいて、空の袋を投げてすててそのままかえり、小銭を拾い集めるのに、床の板の割れ目から床下に落ちたのを、懐中電灯をつけて暗い床下にもぐり探すという珍事件もある。

 

 かく、納税者とトラブルはあったが、真面目な徴収職員の努力は実り、所得税の収納率は、広島局全管の平均82%に対し、出雲署は99%という驚異的成果をあげ、全管一位となる。

 

 これに対し国税局より表彰状と、金一封がくる。

 

 徴収面では個人表彰はなかったが、直税では課税技術に優れ、税の取立ての名人には国税庁から銀時計を貰い広島局内で三人が銀時計の栄誉をうける。

 

 これはねずみ取りの上手な猫が勲章を貰うに似ていて、その当人は部外には吹聴出来ず心中複雑であろうと、人ごとながら案ずる。

 

7 『 署長の恋 』

 お上は非情にして、天国出雲には私を一年しかおかず、津山へ行けというもとより浮草稼業は覚悟しているが、一片の辞令で、毎年毎年の転勤命令には、心中不服におもうが、日本の税務署の子飼いでなく、戦後入署の引揚者だから、虐待されるも止むを得ぬと、自分にいいきかす。

 生来楽天家の妻は『とうちゃんは、田舎廻りの旅役者だね、でも官費の長旅だと思いましょうね』という。

 

 引越しは、フトンと、柳行李二個、それに鍋釜茶碗と子供の本しかないから、簡単だが、犠牲者は三人の子供達で毎年毎年の夏休みに転校し、そのころ県毎に教科書が異なり、転校先に余備の教科書がなかったので、級友の本を借りて勉強せなければならなかった。

 

 山陰線の米子で伯備線に乗換る、新見で下車し、広島から津山に行く列車を、三時間も待って乗り、朝八時出雲駅を立って、夕方六時頃に津山駅に着いた。

 

 翌日、津山署に着任すると署長が君の片腕に期待する。出雲のように津山を全国第一の署にしてくれ、という。

 

 戦前は、酒税が税の王座だったから、間税出身者が大事にされて、署長職につき、戦後は所得税が重視され、直税出が多く署長になるが、津山所長(とくに名は承す)は、庶務出身だが、特に抜てきされ、岡山県十三署中(いまは十二署)の三位の津山署長になる。

 

 見るからに精力的にして仕事熱心には、頭が下るが、苦手の直税面の決裁には、文句の一言もなく判を押すが、こと徴収面となると、喧しい、それはそれでいいのであるが、なんでも、かんでも自分がやらなくては、おさまらないらしく、一係員の仕事を署長がする。

 

 徴収の係長、次長、総務課長の私は、仕事を分取られて、することなく、私は、毎日新聞ばかり読む、すると、署長は”総務課長は月給盗棒だ”という、前任者橋本君は私より心臓が強く、机の上に足をあげて新聞を毎日読んでいて、月給盗棒といわれる。

 

 徴収次長の平田君(いま税理士)は、市内のある果物屋が、税を納めないので係員を同行し、差押にいく、すると美人の女主人は、金庫をかかえて裏口から逃げんとする。裏口に待ちかまえていた平田次長は、その金庫を取上げて中の現金を差押し、もってかえる。

 

 女主人が、泣いて署長に歎願すると、署長は”その金を返せ”という、それは、私が命じたので、私が責任を負うが、金はかえせないと、署長の言を否定する。

 

 ときならぬときに、岡山県下のブロック署長会議があり、私は署長は出席したものと思っていたが、その日、突然に電話がかかり、署長はどこに行ったかと、私にいう。おどろいた私は、あっち、こっちに電話して、署長の所在を探すが、署長は行方不明である。

 

 愛人が肺病で、特効薬のパスを津山駅の隣の小駅から、ひそかに送っていることを職員から聞いて知っていたが、署長会議に出ず、中国山脈をこえてその女に会いに行っているとは、おもわなかった。

 

 数日後、国税局から、えらい方が見えて、”総務課長は署長を補佐するのは任務だ、お前は、署長を監督してないから始末書を書け”という、私は書きようがないというと、こう書けという。

 

 ”署長の行状を黙認し補佐監督を怠って、誠に申訳なくその責任を負います。広島国税局松田文蔵殿”

 

 阿呆らしいが、国税局から命令を帯びてきた、そのえら方の立場をおもい、仕方なくその一札を書く。

 

 翌日、国税局から特使がきて”昨日、署長がどこに行ったか言え”「知りません」

 

 山陰の温泉地に、署長は愛人がいて、病弱で肺の特効薬のパスを、ひそかに送っている。多分女を見舞いに行っているのだろうと思うが、そんなことは口がさけても言えない。

 

 「知らんことはない」

 

 「知りません」

 

 と、一日中頑張る。

 

 『オ前は強情な奴だ』

 

その特使はカンカンに怒る。

 

 「オ前も始末書をかけ」

 

という、私は書く理由がないから、突張るが、特使の立場を考えて、やむなく一札を書く。

 

 『署長の行状を部下の私が補佐監督せず、誠に申訳がありません。いかなる罰もうけます。広島国税局 松田文蔵殿』と。