1 『 税務署を焼打ちにする 』
そのころ、私の机の上には、毎日毎日税の不平、不満、呪詛、はたは恐迫の手紙が殺到し、山のようになる。
フィリッピンの戦場の砲弾下に六年もいて、悪運強く九死に一生を得て帰還したが、闇屋となることを潔よしとせず、ふるさとの島で半年ほどぶらぶらしていたが、妻子をかかえて無為に遊んでもおれず、忠海署(現竹原)につとめると、物資不足で闇横行の世間よりも、税務署は税金の取立で戦場さながらである。
鶏三羽、柿ノ木一本に所得税を課し、そのうえ増加所得税という全くわけのわからぬ税、それに非戦災税という百姓いじめの税を、二重三重と取立て、日本開びゃく以来の苛れん誅きうで、慄然とするほどである。
ある戦争未亡人が、
「私は商いもせず、闇もしてないが、なぜ、所得税が課かるのか」
と、いって税務署にくると
「お前は、着物を売ったであろう」
「ハイ、嫁入りしたときの晴着を百姓さんと米にかえました」
「その税金だ」
と、税務署員は、昂然といい、税金を納めるのは当然の義務だと、いう。
終戦後は、誰れもが家具を売り、着物を売りて、米や麦を買い、生きていたので、税務署員が、あてすっぽにいっても該当しないものはいなかった。
戦前台湾総督府で税務事務をしていた私は、所得税法にいう所得は、そんなものではないと、承知はしていたが。
局の署長会議で割当課税を強制命令されるので、第一線の税務署は無理を承知の上で理不尽な理由をつけて、課税せざるを得ないのである。
忠海署の昭和23年度の割当課税額は、3億2千万円を仰せつかる。これは忠海署が、当時の管内の経済状況を勘案して試算して内申した徴税額よりも6千万も多い、当時の物価と、いまの物価指数を4倍とすると、6兆円という天文学的数字の水増し課税であり、否応なくこれを納税者に押しつけた。
いまは回顧して、よくもかかる暴挙をなし得たとおもい、一幹部職員として、その責を免れ得ないものがある。
「下手な鉄砲もかず打ちゃあたる」といい、一人の納税者に二通も三通も決定通知を発し、文句をいってくると、
「一番高いのがほんとうだ」
と、平然といい、押しつけた。
それでも納税者は、「日本は敗けたのだから」という屈辱心と、もう一つは税法を知らなかったから、税務署の無茶苦茶なやり方がまかりとおった。
しかし、巷には税の不平、不満、不公平、怨嗟、呪詛が、村や町に溢れ、充満し、町民は大挙して税務署に押しかけ、有力者は文句をいってきたが、一般の弱い納税者は不満やりかたがなく、ハガキや手紙で、税の減額を歎願し、
「この高い税は納める力がない、首を吊るよりほかない。税務署の松の木に首を吊って死ぬ」
と、いう手紙が同一人から二回も三回もくる。
また、傷イ軍人らしい人から
「喰うものもなく、骨と皮の私は破れた古障子であり、一文も金はない」
という手紙もきた。
ひどいのは「税務署を焼打する 天誅組」という恐迫の手紙が各地からくる。
これは同一の文句だが、皆筆跡が違っていたから、申し合せて、税の不満のある者が出したらしい。
この手紙は警察にも行き、警察署長が心配し「税務署は夜間警戒を厳重に、各幹部の自宅は危ぶないから用心してくれ」といい、署長や私の家には警備員を夜間は配備してくれた。
いま、広島市で税理士を開業している当時の所得税係長の某君は、最も恨まれていたので、自分にも用心し寝るときに不意の闖入者に備えて鉄砲をもってねたという。