35 『 釣狂い 』
内海の夏の朝は、霧が生ぜず、ぬけるほど明るい。
突堤の尖端に、ワイシャツの男が一人釣りをしている。
宿の者も起きている気配なし、泊り客も早暁の夢の中にいる。
階段を音をたてず降り、玄関の戸を開けると、道一つ距だった海から、磯の匂いが胸にドッと迫る。
「釣れます」
「・・・・・・・・・」
男は無言で、首を横にふる。
海は清く、海底の藻が見え、雑魚が遊泳している。
「魚はいるね」
「見える魚は釣れません」
「戦前はよく、釣れたそうですが、この頃、魚が減りました」
「私は小学校時代、この沖でギザミを、毎日、数十匹釣っていた」
「お客さんは、この島の人ですか」
「私は、ホテルの調理師です」
と急に、愛想がよくなり、
白いワイシャツは汚れてなく、言葉に、島の訛りがないので、いずれの紳士かと、思っていたが、泊っている宿の料理方である。
昨夜、宿の女将は、
「板前が気儘で困ります。夜七時すぎると、時間外だと言って料理を作りません」
と、最近きたという板前の悪口をいい、この節、人を使うは難儀ですと、散々愚痴をいう、
その板前は、キリットとした好紳士で、釣糸一筋に生きている。
「君、妻子は」
「いますが、いないも同然です。妻と一人息子を博多においています。自分は子供時代から釣りが好きで、そのため中学校は中退し、板前になりまして、海辺の宿を転々とし、その付近の海に飽きると、次の魚釣場を求めて、勤務先をかわる調理師の漂泊者です」
「君、楽しい人生だな」
「楽しくはありませんが、魚釣りが、飯より好きでね、妻子は不憫でしょう」
「しかし、女遊びや、ばくちなどの道楽は一切いたしません。一日で、朝と夕方は雨が降っても釣りをしています。そして釣った魚は、一匹も食べません。釣れても釣れなくてもよく、糸を垂れて、海を見ていれば心に安らぎがあります。
一日によく釣れるときは、数十匹釣りますが、あまり釣れるといやです」
と、この調理師は、俗人には解せぬ心境である。
私は月に一度、生まれたこの島に帰り、85歳でなお神峯山に登るかくしゃくたる父と語らい、造船業をしている弟四人と会うが、泊まるのはホテルにしている。
海で育ったため、魚を好み、とくに内海の小魚は美味であり、それが楽しみで島にかえる。
そしてホテルの女将には気に入られていない、釣狂の調理師君と、早暁の突堤に二人黙って糸を垂れる。
海は無言である。その中にいいようのない、かなしみがあるが、そのかなしみは、歎きではなく、人間の寂蓼を慰める静かな悲しみである。
不意に小魚が、ピクッと糸を引く。そのとき釣師の血は躍る。スハと引上げるが、小魚は逃げている。私は残念がるが、調理師君はニコリともせず。静かに糸を垂れている。
真に釣狂の彼は、魚は釣れても釣れなくてもよく、海をみて糸を垂れていれば満足している。
36『緑陰の聖者』
上京し、会議が終ると、ウキウキし、浅草へ飛んで行く。
近年映画館が減り、さびれるが、浅草情緒は、田舎者を、こころよく抱いてくれる。
女剣劇をみ、ロック座のかぶりつきで、口をあけ、美女のヌードを見ていると、赤い腰巻をパット開き、突如襲いかかり、頭から抱きついてくれる。ショーの一駒であるが、悪い気はしない。
それを、ニタニタ待っているのは、中年男である。
叩売りは田舎者相手の、インチキと分かっているが、口上が面白く立どまっていると、フラフラと買う気になる。
「これでも買わんか、今日の客は貧乏人だ、よしまけとけ、五千円を千五百円だ」
というや、一人がパッと買う。それがサクラとは知らず、田舎者は安心して、われもわれもと買う。
とこらが、全然書けない、インチキ万年筆である。
「また、都会の奴にだまされた」
と、田舎者は口惜しいが、心中では
「よくもだました」
と都会人のずるさに感心する。
つぎは浅草寺の裏の、大樹の下の素人将棋を見に行く。
将棋狂いの父は、上京すると一日中そこで、都会の閑人と将棋をすることを楽しみにしていた。
一回十円であるから、金もかからず、大衆的な憩いの場である。
帰途は、大阪に下車し、通天閣の新世界に遊ぶ。名物のドテ焼は庶民の味である。
新花月の万才を聞く。朝は八十円だが、午後は二五〇円に入場料ははね上る。朝から入り午後までいて、万才や落語に笑いこけて一年中の、心の垢を洗う。
梅田の新花月は、芸能人の登竜門にして、ここで人気が出ると、放送局が引っぱる。
広島にはヌードの広栄座があるが、寄席はなく、妻と二人、ときどき上阪し新花月に行く。
パチンコの金属の音は、こころよいが、アッという間に、客の金を小さい穴へ吸いこむ。
それより、平和公園の樹下の、素人将棋を観戦する方が楽しく健康的である。
数年前は十四、五人に過ぎなかったが、いつしかファンは急増し、今は百人近い愛好家が屯ろし、われを忘れ、将棋と碁に夢中である。
老隠居、中年の店主、仕事帰りの職人、学校帰りの高校生もいて、相手を選ばず対局し、ある者は端然と正座し、ある者は足を投げ出し、各自気ままに、時間を忘れ、金儲けを忘れ、妻子を忘れ、一石の動き、一駒の嘆き、夢中と忘我の郷にある。
ある日、対局中の一人が、いきなり倒れ、口から泡を吹いて苦しむが
「テンカンだ」
と、誰れも見向きもせず、小半刻後、その男は起き上り、ニヤッとして、対局中の碁をつづける。
その相手は、これまた一石打つごとに、咽喉の奥が、ゴトンとなる奇病の持主である。
ここでは健康な人も、テンカン病も喘息もちも、皆平等であり、金持も貧乏人もなく、青葉の樹下に一石、一駒の勝負に生き、勝つと喜び、また負けても悔しがらず、人生の一喜一憂を盤上に求め、そして皆、無欲の集団であることは確かである。