23 『 悲しき桃太郎 』

 終戦時の税務署員は殺気をおびていた。とくに徴収職員は、かきの木一本鶏三羽に、課税する税金に追い立てられ、毎日毎日、ドブ狩りの服をきてトラックに乗り、滞納整理がその任務である。

 

ある家では主人が激怒し、出刃包丁を投げつける、妻女は気が狂い素足で飛び出す。

 老母は泣いて哀訴する。それでも差押さえをし、家財道具一つ残さずトラックに積んでかえる。

 

 山陰の某所では病臥中の老人がショック死し、殺人罪で訴えられた職員もいる。世間は白昼強盗というが、税金の取立ては聖職である。

 

 世間がおこれば、血の気の多い職員は、反発を感じますますと勇壮になる。忠海には旧海軍の官舎があり、わたしは元憲兵隊長の家にいる。

 

  疲れてかえる大町君、山田幸君等十数人と、とぐろをまいて「しょうちゅう」をのむ。

 

  被差押者もつらいが、差押えする者も楽ではなく、酒を飲んでつらさを忘れ英気を養った。

 

 豊島の漁師は、皆滞納し、その処分票が1メートルの高さになる。駐在の巡査を、海の中に放りこむ無法地帯で、あぶなくてよりつけない。

 

しかし勇気を鼓舞し、大町君と行くも、ドテラ着の若者が、酒を飲んで対じして、手がつけられない。そこで、税金の督戦にくる米将校に

 

 「軍艦を貸せ」

と頼むと、いとも簡単にOKという。

 

  翌日、呉のGHQの本部に単身乗りこみ、先日の将校に

 「約束の海防艦を引取りにきた、いつ豊島沖に回航してくれるか」

と片言の英語でいう。

 

  将校はしばらく無言でいたが、口を開くや

 「日本のことは日本でやれ」

と、静かに他人事のように言う。

 

  わたしは敵地にのりこみ、はりきっていたから、一瞬は、

 

  「このウソつきヤンキイー」

 

と腹が立ったが、同時に、雷が脳天に落ちた衝撃をうけ、体内の血が冷たくひえる思いがし、黙ってGHQを出て、戦火で灰じんとなった呉の町を真夏の太陽に照射されながらトボトボ駅にむいて歩む。

 

  そのころ税務署は薄給で、炭坑夫が一日千円なのに、ひと月の月給が千円そこそこだから、生活は苦しく、仕事はつらく、自然、心は鬼熊のようにすさんでいた。

 

わたしもそのひとりであったが、米将校のひと言は、わたしの心に一つの明かりをつけてくれた。しかし、激増の滞納は差押えを強行せざるを得ない。

 

  軍艦は貸してくれぬので、機帆船を借上げ、船体に

 

 「差押物件引上船」

と大書し、島々の税金退治に行く。港にこの船が着くや、海賊船の襲来と、おそれをなして近所から借りあつめて、税金を納める。ある劇場主は、金がなく納められない。

 

  やむを得ず差押えし、

 

  「ご主人、税金は自ら納めるものです。あなたが荷車を引いて船まで運びなさい。わたしが後押しします。」

と、ふたりはタンスを積んだ荷車を桃太郎のようにエンヤ、エンヤ、ガタガタと引いた。

 

  世界広しといえど、飛行機を税務行政に利用したものは少ないと思う。日本娘にほれた弱みで娘にくどかれ、戦闘飛行訓練中の飛行機から、納税宣伝ビラを、基地の空から、日本の納税者にまいた。そのビラは、真っ赤に染まり

 

 「神よりの声」

と題し

 

 「納税こそ救国への道である」

と、たった一行の私の苦心のビラを!

 

  初代、国税高橋長官は、退廃した納税道義の回復につとめ、みずからレコードに吹込み、国民の各層に切々と訴える。

 

 全国五百一の署は、競って納税宣伝に重点をおき、あの手この手を案出し、おおわらわに活躍する。わたしはヒットをならい、近所に住むオンリーに近づき、彼女に愛人の空軍兵をくどかせる。

 

  アメリカ兵の気質は、フィリピンの、ふ虜時代に研究しつくしている。女に特に甘い、フィリピン娘が頼むと、なんでもOKする。寝台がほしいといえば、わたしたちふ虜を利用し、軍倉庫から軍用寝台を盗み出す。ひどいのは、軍用ジープを売りとばし、営倉に入ったアメリカ兵がいる。こいつは、ガードの中でももっともきびしく、

 

  「ハバー、葉バー」

と重労働を強制する。わたしは、ふ虜となってまで働くは男子の恥の上塗りと信じて、シャベルを朝土中に入れ、そのシャベルに片足をかけ、流れる雲をみていて、一日中だんじて働かないから彼の監視の的となり、

 

  「お前は営倉だ」

 「軍法会議だ」

と威嚇するが、がんとして働かなかった。

 

  基地の日本娘を通して申込みした要件に対し、愛人の空軍准尉は、個人的ではいかぬ、市を通してこいという。そこで市長を通じ、正式に申込み、ビラ数万枚を基地に運ぶ。かくて

 

 「神の声」

は基地の空にヒラヒラと舞いおり、市民は時ならぬ戦闘機からのビラを、我さきに奪いあった。

 

  お礼は酒1ダースくれというので、小びんを12本やった。

 

  その頃、その署はあらしの中にあり、騒然としていた。男子職員だけでは、徴収ははかどらぬ。

 

  やむなく、全国に先例のない女子職員に協力を頼む。男子におとらぬ成果をあげると、

 

  ときの塩見局長は

 

 「女子虐待」

ときげんが悪い。

 

  コンニャク畑の課税におこった山の農民が、ゾクゾクとムシロ旗を立てて、町に集合し署に押しかけてくる。あらかじめ、男子職員は全部退避させ、女子を残留部隊とし、わたしひとり、待機し待つ。百人あまりの農民は

 

 「不当課税だ」

とわめき、わたしをこづき、突き、ひっぱるので、洋服のそではもぎちぎれ、シャツは破れて散々な身となるが、ひとりでがんばりとおした。ああいうときは、

 男子は動じやすい。女子は、心臓が強く黙って平然としているから心強い。

 

  その署のあの頃の女子職員は、みな仕事が出来てよく働いた。それでも仕事が渋滞するので、徹夜で何日もがんばってくれる。不平の一言もなし、心と心がふれあい、仕事のために全員一丸となっていた。

 

 在職中、最も苦しい思いをするが、往時をしのんで今は美しい追憶の詩があり、当時の職員の面影をしのび、深い感慨にふける。現、税大広島研修所の佐々木敏子さんはそのひとりであり、ものすごいがんばり屋さんであった。