41 『 電話の向こうがわ 』
朝の電話はクツワ虫のように、けたたましく鳴る。
妻は「やかましい:と、言わんばかりに電話器を押える。
「ア、奥様ですか」
と、あいてによって、巧妙にいんぎんとなり、鈴虫のいい声になる。
「おとうさま、きのう、めがねを置き忘れてないかと、森田さんからです」
と、裏庭にいて、カナリヤの餌を吹いている私に問う。
「イヤ、なかった」
「ないと、申していますが」
という、先方は、妻には返答もせず
「おとうさん、どこにあったの:
「ウム、鞄の中にあったよ」
と、先方の老夫婦の声が、電話の中で叫ぶ
「おとうさんのろうばい者!!いつも、そうだから、しっかりしてよ」
と老詩人は叱られている、それから
「あったんですよ。おとうさんは物忘れが多く、こんなことで、喧嘩ですよ」
と、ことの次第を話さぬが、妻は電話が伝える、先方の内紛を知っていて、
「それはよろしゅうございました。うちの主人も、ど忘れしますし、喧嘩します」
と、夫婦喧嘩は相身互いだと先方を慰める。
森田先輩は、昨日事務所を訪れたとき、
「新聞に先輩の短歌評が掲載されています」
と、告げるや、目を輝かして、鞄から老眼鏡を出して読み、読み終ると、たしかにめがねを鞄にしまいこんだんだから、私はハッキリと確答出来た。
粗忽な私も、森田先輩に劣らぬ失敗を、ときどき侵す。
この節、男女仲介業を友人知人から委嘱され、見合写真が、いつも十通近くある。事務所でも会い、自宅をも訪ねてきて置いていく。
「たしかに文箱の中にあった、オ前が、どこかにかくした」
「あなたが先日事務所にもって行かれました
「いや、もって行かぬ」
と、私は確信に満ちている。主人が強硬の態度に出ると、女は信念が動揺し、うろたえて、家中のタンスや本箱を探して回る・
「ありませんよ」
「ないことはない、探しておけ」
と、憤然として出勤する。ところが、その見合写真は事務所の机の中にあった。
そのとき、男は心中「ウーム」とうなり、頭から五体にかけて小さいけいれんをおこす。これは男が、進退窮したときの動作である。
すぐ電話で、息子の嫁に
「モシモシ、文代か」
「私よ」
と、電話の声は妻である。
「文さんにかわれ」
「おとうさん、なに」
「ウム、写真はあったよ」
「ソウ、よかったわね」
と、嫁は心から優しい、電話のそばの妻は
「あったのでしょう」
と、その声は鋭い。それを聞くや、私は、ガチンと電話を切る。この場合、最初の電話の妻に
「あったよ」
と、降参すればよいが男は間違っても、わが妻に頭を下げるは苦手だ。
そこで嫁に報告すると、妻は主人の弱点をこのときばかり見逃さず
「それ、見たか」
と、電話の向こうで「フーム」と、鼻の穴を大きくして勝名乗りを上げるのである。
「電話です」
と、二階の私を呼ぶ
「いま、不在といえ」
「でも、お待ち下さいと申しました」
「馬鹿野郎」
と、余儀なく麻雀の座を立って電話に出る。ときどき、この手を使うが、こちらが電話をかけて、電話の向こうで
「不在です」
と、やられると、電話は正直であり、先方の夫婦間のやりとりが、そのまま聞こえてくるから、たまらなく不快である。
「アア、さっきに出掛けました」
「今夜はご用があり、まだ帰っていません」
と、主人を目の前にして平然と、嘘を言う。
性来、女は虚言を最大の悪徳とし、嘘も方便ということを納得せぬ。
「お父様が、間違っています」
「いや、嫁のお前が間違っている」
と、老父と、わが妻は押問答している。
戦局が不利になると、老父は、
「オ前の意見はそうだろうが、わしは、こう考えるのだ」
と、うまく逃げようとする
「お父様、それは卑怯です、貧乏人は、麦を食えというのは、政治家の言ではありません」
と、あくまで、父と論戦しようとする、父は叶わぬと思い、黙している。すると妻は
「あなたは、どちらに賛成ですか」
と、老父とわが妻の舌戦を面白く聞いているそばの私に難が及ぶ。
「わからんよ」
と、父にも反対せず、むろん妻の意見に同意しないと。
「あなたは、ずるいから」
と、目に涙を浮べ、私をにらむ。
私は、父は恐ろしく、子供のときから一言も口答えし得なかったが、その点、わが妻は天真無垢にして、堂々と舌戦を交えていた。
その父も、昨年八十六で眠るが如く大往生する。
その臨終に際し一番手厚く介抱したのが喧嘩相手のわが妻である。
主人の胸中を知り、その折の情況判断を心得て、電話を要領よく取次ぐ機微を覚えるには、世の女房は数年の月日を要する。
「ハイ、まだ帰宅していません」
と、電話口の妻は笑顔である。
「誰れか」
「麻雀友達よ」
「馬鹿者」
と、このごろは電話を逆用されて困る。
「雨傘がない」
「あなたですよ」
「置き忘れたのでしょう」
というが、私は断固責任回避すると妻は、
「モシ、モシ、奥様ですか」
「雨傘を忘れていませんか」
「一本ありますよ」
「どうもすみません」
と、応答していると、電話から、先方の主人が
「碁を打ちに来いといえ」
と、私にハッキリ聞えるが、先方の奥様は、それをいわずガチンと電話を切る。
先日、事務員の半田さんが電話で相手と話している、すると、別の女の声が、
「あすこの先生は怖い」
というのが、当人の私に判然と聞える。
私は思わず
「なにが怖いか、馬鹿め」
と、電話へ向い、大声で怒鳴る。
半田さんは、私に調子を合わせてくれて
「先生は一見怖いが、根が優しいのよ」
と、電話の相手でない、電話のそばの別の女に聞えるようにしんみりと、いうてくれた。