40 『 旅から 』
かねて宿望の、北海道の旅に立つ。東京に一泊し、新宿に飲みに出る。
宵の、広い公園は若いアベックに埋まり、女の顔に男は、顔を埋めて、相抱く。落花乱れる修羅場を見て、あぜんとし、
「不潔だ」
と、うなると同行のメイは
「不潔だと思う、オジさんの方がオカシイ」
と、うそぶく。私は
「ウーム」
と、返えす言葉を見失う。
東京の、若い男女の道義は退廃し
「世は破滅だ」
と、慨嘆し、ちょっといまの若者がねたましい。
旅は道連れというが、妻と義妹では、つまらぬ。幸い隣席は、旭川の自衛隊に転勤の人である。彼のコップ酒を、汲みつつ
「私も、かつては一兵だ。青森の戦友に、会いに行くのが目的であり、北海道の旅は、そのついでです」
「軍隊は、学閥も身分もない、裸の男と男の対決であり、男の修験霊場としていいが、上官がやたらにいばり、兵は、上官の鼻息を伺い、要領よく出世しようとすることが、いやであった」
「君は栄転し、喜色満面だが、有頂天は、失敗の基だ」
と、一杯きげんの私は、小松二曹と名乗る一面識の男を説教する。
彼はいつしか、私を先生といい、
「何か書いてくれ」
という。私は、名詞裏に
「得意冷然、失意泰然」
と書く。
「有り難い、教訓です」
「自分は自衛隊がすきです、今後いっそう、国のために尽くします」
と心の底に、尽忠愛国の闘魂が燃えている。東京の若者は恋に酔うが、このように、たのもしい青年もいる。
北海道は雄大にして、変化に富む。
七月というのに、タンポポが咲き、桔梗が咲いている。
阿寒湖は美しく、摩周湖の水は、鋭く紫紺に澄んで沈思し、殺気が湖面を漂う。
網走の浜は、オホーツク海の波に洗われ、白砂は、サラサラと指の間からこぼれ、浜ナスのピンクの花は、かれんと思う。層雲峡の、その壮大な奇岩には、胆をつぶし、洞爺湖畔の昭和新山は、近々二十年を経た、生まれたばかりの溶岩の山であり、噴く水蒸気は活火山のごとく、山、自体が生きている。
これは個人所有で取得価は三万円というが、時価は数十億かと、職業柄やぼなことを考える。
道内に五泊し、津軽海峡の夜の漁火をみて、尻内駅に下車する。
ホームに戦友は出迎えている。老けているが、懐しい顔だ。
吐く息が酒臭い。
「呑んでいるな」
「ウム」
「しょうちゅうか」
「ウム」
「昔と変わらぬなあー」
と言い、二人は呵々大笑する。二十四年ぶりに会った、二人あいさつはこれである。
マニラの硝煙弾雨下で五年、生死をともにし、苦楽をともにしたので尽きぬほど、話はあるはずだが、会えば話すこともない。奥寺も私も、万年一等兵で誇るべき武勲はなく、はじめての激戦場で、身辺にさく裂する砲弾が恐ろしく、岩陰に身を避けると
「戦争にきて命が惜しいか」
と、銃床でどやされたこと、馬小屋の、馬の腹の下でバクチにふけったことなど、失敗談の話は尽きない。
翌日、十和田湖に案内し、駅に見送ってくれ、
「元気でくらせ」
「貴様もなあ」
と、戦場で別れ別れに討伐に行くとき、互いの無事を念じたように二人は、手を握る。
彼の手に力がはいり、私も精一杯彼の手を握りしめる。老眼鏡の奥の目に、涙が光っている。
「さようなら」
と、私は声にならぬ声を発し、無二の戦友に、別れを告げる。生命をかけた戦友への憶いは乗り物にのっても、人を恋うる心境になる。今しも
安芸津からふたりづれのばあさんが、いそいそと乗り、前の空席に座を占める。ふたりは、旅に出るらしく、楽しく語りあう。
「じいさんはがん固だったでなあ」
と、いえば、
「ウチのも一徹で、やかまし屋だったよ」
と、ふたりのばさんは期せずして、じいさんをこきおろす。
言葉が過去形であり、どちらのじいさんも、すでにこの世の人でないらしい。
同じ過去形でも、肥満体のばあさんは、最近の死別らしく、その表現に
「ヤレヤレ」
「やかまし屋のじいさんが死に、ホッとした」
と、いう安らぎと寂しさが顔に出ている。もうひとりは、後家暮しが長く、亭主のにおいは、からだのどこにもなく、長い人生の旅を終えた老朽船のようである。
わが妻は、年の順よというから、わたしが先で、妻はあとに残る勘定であり、このばあさんのように、
「むつかしい亭主だった」
というにちがいない。今でも親しい人には
「むつかしく、ケチよ」
と、人前で公然とこきおろす。
「黙れ」
と、一かつし、
「ナニがケチか」
「結婚当時、ボーナス全部を落し、泣いたがひと言もしからず、慰めたではないか」
と、二十数年前の事件を持ち出し、また
「病気のとき、お前を負うて病院へ行ったぞ」
と、親切の標本を持ち出し、自己弁護につとめるが、長年、暴君の下で苦労した恨みは消えず、効果がない。来客の若い細君は、
「ウチは信用できません」
「今はまじめだ」
と、若い彼は言うが、昔の罪状がたたり、妻に頭が上がらぬ。
新婚当時は蜜のごとく、甘い接吻をし家を出るが、日が経つと、たちまち亭主関白となり妻に甘えるのは男のこけんにかかわると冷たく意地悪くすることが、一家の主の、面目を保つゆえんなりと思っている。また、妻は子供に
「とうちゃんは、こわいよ」
と、男をつんぼ座敷においこみ、
「宅はやかましいですから」
と、隣り近所の奥さんにオーバーにふいちょうし、夜抱かれるとき以外は亭主を怪物にしている。
これが、日本の夫婦生活の、実写であるが、夫婦は二世の契りであり、この世でも、あの世でも、たったふたりの、世界であれば、互いに愛情の根が尽きるまで、愛し合い、甘く、甘く、砂糖のような一生を全うすべきである。
夕方疲れて帰ると、
「帰ったの」
と、台所から、妻のドラ声がする。
「ほかに帰るところはないよ」
と、亭主はとんでもないことと、うそぶく。
こんな場合、
「あなた、おかえり」
と、新婚当時のように三ツ指をついて迎えてくれれば、亭主はきげんがいいのだが。
世の賢い女房は、今宵から、この手を用いれば、いいなあと思う。