38 『 ハンコ日本 』

  俗に非能率なことをお役所仕事という。民間の企業はテキパキとスムーズにすべてが進捗する。役所は、上司がハンを押さないと、仕事は直ちに渋滞する。

 

  国税局にいるとき、一つの書類にハンコが数十個、ベタベタと押してありそれに私も、一人前に判を押し、そえからまた上司が、いくつか判を押すから、書類はハンコの洪水だ。

 

  アメリカでは、担当責任者がサインをすればOKだが、日本のお役人は、ベタベタハンコを押さないと、気がすまない。

 

  広島○税務署の現在職員は百八十名であり、私が在職中は二百六十名余りいた。かかる大世帯になると、一人一人の計画、各係の計画、各課の計画は、綿密に、組織的に、有機的に樹立され、目には見えぬが、仕事は大河のごとく流れ、その書類は、日々机上に山積する。

 

  すくない日でも五十件、多い日は、一千件をこす書類を見なければならない。一日怠ると、次の計画が渋滞し、全体の計画が狂う。

 

  私は、昼食はパンを噛じりながら書類を見て、ハンを押す。一日、一千件もハンコを押すと、さすがに腕がつかれ、心の中で、

 

  (俺はハンを押す機械か)

と、悲しくなる。

 

  しかし、私はハンコには、絶対の責任を自覚し、いうところのメクラバンは押さず、そのため多忙なときは、書類を自宅において、夜を徹して些細に検閲し、全心全霊、誠心誠意、で真面目なハンコを押した。

 

  そして私のハンコのもつ意味は、ややその意を異にし、税金の高い安いは意とせず、いかに調査に辛苦し、心血がにじみ、納税者が納得承知する調査がされているか、否かに、主眼をおいた。

 

  アベックホテルの所得調査は徒手雲をつかむごときであるが、調査事績を読んでいて、思わず

 

 『ウーム』

と、感嘆するような理路整然とした調査には、私は心の襟を正して、その個所に、手にもつハンコを、まっすぐに、キチンと、正しく押す。

 

  この場合、部屋数などを勘案し、所得を推定していると、私はハンコをサカサマに押す。

 

  この調査の内容によって、ハンコを正しく、または斜めに、またサカサマに押すハンは、職員の調査能力と、各人が、いかに精魂を傾けて仕事をしているかを知る指標であり、これを基にして、私は職員の勤務評定の物差しとした。

 

  日々押すハンの中には、さほど重要ではないものがある。

 

  そこで一念発起し、昭和三六年七月二〇日から翌三七年七月十九日まで、この間一日も欠かさず克明に各課ごとに一件も残さず、日々のハンコの数を辛抱強く記録した。

 

  日本の役人多しといえども、古今を通じて、ハンコの記録をとったのは、恐らく私一人であろう。

 

  この一年間に驚くなかれ、私は62,921件のハンコを押した。

 

  これをデータ-として、ハンコの分せきを行い、ハンコの省力化を実行する。

 

  すると、国税局から、分掌規定に違反するから、省略はまかりならぬと、お叱りがあるも、私は断固として、私の道をすすむ。

 

  その後、その分掌規定は改正される。もし、あのとき、反旗を翻していなかったら、いまなお改善されていないであろう。お役所はそういう因襲的なところがある。

 

  税務署はもちろん、あらゆる行政機関は、百年の大計のもとに、各機能は動いており、すべての公務員は常に、このことを念頭におき、無欲無心で公平であり、かりにも、一時しのぎの仕事をしてはならない。

 

  ときに税務署においても、弱い納税者は泣きねいりするが、あとに私恨が残滓となる。今日、なお納税者と税務署が並行線にあり、納税に不承不承であることは、大国日本の不幸というべきである。

 

  かりに税金は高くとも、納得のいく調査には納税者は理不尽はいえず、やがて納税者は姿勢を正しくする。

 

  私が税金の高い安いより、調査の内容に重点をおいて、その個所に、ハンコをさまざまな姿で押したのは、深い意味をもっていたのだ。

 

  この調査内容書に押したハンコの数は62,921件に含まれていない。

 

  企業においても、売上高ばかりを店主が求めると、必ずコゲツキ債権が生じる。

 

  先日も、ある呉服商が相談にきて、

 

  『困っている』

という。そこで、事業分せきをすると、不良売掛金が多く、黒字倒産の一歩手前である。

 

  また某画商が店員の尻をたたく。店員は店主の渋い顔を見るのは辛く、

 

  『代金はいつでもよい』

と売る。集金に行くと

 

 『金はない、絵をもってかえれ』

と、反対に怒鳴られる。

 

  企業においても、量より質であり、同時に店主は、店員の苦心を聞いてやる情愛が必要と思う。今日、店員は使用人ではなく、金を生む、鶏であることを店主は自覚しなければならない。

 

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 ハンコについての秘話を一つ

 

 ある日、杖をつき中風の老人が尋ねてくる。

 

  『買掛金がたまり、担保にいれていた家、屋敷をとられた。おまけに譲渡所得が30万円きたが、一文もない』

と、哀訴する。

 

  『いつのことですか』

 

  『四年前のことです』

 

  『申告書にハンを押したのですか』

 

  『ハア、ハンを押し、申告しました』

 

  『困りましたね、ハンを押した以上納めねばなりません』

と、私はいうよりほかに言葉がない。

 

  この人の場合は三年前のことであり、本人が申告すれば納税義務が生じ、本人が自主的に申告しないと、税務署は税金の更生決定はできない。

 

  これは税法無知が招く、現代悲劇である。

 

  日本という国はハンコ一つで政治が動き、ハンコ一つに庶民が泣く、まさにハンコニッポンである。