29 『 公認の恋文 』
<今日は返信がきているだろう?と胸をふくらませて自転車のペダルも軽く、いそいで帰宅して、服もぬがずに、机の上や、状差しを探し、ソワソワしていると、台所にいる老妻はひややかにみているが、エプロンの下から
「これでしょう。福岡の彼女からラブレターよ」
と、ひやかす目付きで部厚い手紙をくれる。それは開封してあり、検閲済みである。
と言うと、老妻は
「夫の手紙を見るのは、妻の当然の権利だ」
と私の抗議を一笑にして、いつも開封して読んでいる。銀婚式もすぎて、孫が二人ある骨とう夫婦の仲であるが、女の手紙を読むことは妻の面前では気がひけるので、サッと一読して妻が不在のとき、ひそかに味わいつつ読む。
おいとさん、という可憐な名で、昔の女子大に学び、達筆で華麗な文章は、私を圧倒するのである。妻は
「とうちゃんすこしあやしい」
とやいている。私は
「馬鹿いうな、若くて未亡人になったので、燃焼しえなかった、亡夫への慕情だよ」
と、女ごころを説明してやると、妻は
「そうですかねー」
と、なま返答であるが、このおいとさんは、もう70近いお婆さんである。
今では来信がないと、病気ではないかと心配して
「とうちゃん、恋文を出してあげなさい」
という。
「オマエ出せよ」
「字がへただから書かない」
といい、私と彼女との恋文は家内に公認されている。
おいとさんと私が知己となったのは、28年5月に、日光見物のとき荷物をもってあげたことが縁であり、爾来二十年間、家内公認の恋文のやりとりをしている。
昨夜(12月2日)は突然に、雲仙の地獄谷で知り合いとなった、奈良の人がたずねてきて、深夜まで語り、将棋を楽しんだ。阿蘇の旅で友達となった早大生は、いま清水組に勤め、フランス会館の現場監督に加わり、娘が東京に出たときに大変お世話になった。
この青年とも7年ごしの文通をつづけている。このほかに知り合いとなり、文通している人に、世古田君がおり東京に松矢君がいる。
私は美しい自然がすきで、一人飄然と、手ぶらで、汽車の時間表を見ず、行きあたりばったりに旅をする。そして老婆でも若者でも、心にふれて友達となる。人生を豊かにするには、良い心友を、多く得ることであると思っている。
竹馬の友は三人いたが、一人は玄海灘で魚雷攻撃をうけ戦死した。
五年間戦塵下で、一本の煙草を分けあってのんだ戦友も、ほとんど戦死し生還した僅かの戦友も、現在バラバラとなり、探しもとめる術がない。
俳句の友はいいが、旅で得る友は利害関係がなく、心のふれあいのみが、いつまでも美しく清く残っていて、友として最上である。
鳥取県岸本町の大幡婦人会では、夫婦間で、恋文をとりかわず運動をしている。なかなか愉快な運動である。男は釣りあげるまでは夢中で、必死に恋文を書いて、浪花節の文句ではないが、寝ては夢、おきてはうつつ、まぼろしのと紺野高尾式の美文章で、おんな心そげん想して恋の勝利者となるが、さて結婚すると「結婚は恋愛の墓場なり」で、夫婦間で恋愛することを忘れてしまう。ここに家庭争議や、はては、かなしい悲劇が生まれる。
私には一つの信条がある。それは男性たる者一度結婚のZ旗をかかげたら、
この旗を決して、おろしてはならないということである。そこに男性の責任と、尊厳性がある。かといって、私の永い家内との交情が、まったく平穏無事であったとはいえない。
ときには感情が嵐となり
「出ていけ、かえれ」
と、どなったこともたびたびある。結婚して四、五年たったころのことである。おもうに、いわゆる倦怠期という奴で、どちらも、相手に遠慮するという、しおらしい心が消え、
「もっと、うまいものをくわせ、ビールの一本位飲ませたらどうだ」
と料理のへたなことと、家計のやりくりの不手際とを、このときばかりに責めたてると、
妻は負けずに
「安月給でなに言ってんの」
と、あてがはずれましたよと、いう顔である。男心はますます、ふっとうして、犬も食わない夫婦ゲンカとなったものである。いま思うに
「今夜は肉が食いたい。誠にすまんがビールをひやしておいてくれ、恋しい奥様へ」
と役所から、恋文イヤ食文を出し、妻も
「今夜映画に行きましょう。一分も早く帰えってね」
と、夫にいつも愛情のひもをつけておいてくれたら、マージャンもせず、まっすぐ帰宅して
夫婦の交情は、いよいよ深まり、楽しかったであろうと思い、残念でならない。
現在、老夫婦、二人だけとなり、妻が留守をするときは
「すみませんが、炊飯器のスイッチを入れて下さい。トウフ、一つ買っておいて下さい」
と、へたな字で置き文がしてある。
こんな用事の置き文にも、ほのぼのとしたものを感ずる。
若い夫婦は
「あなた、きょう一時、福屋の前で待っていてちょうだい。安いコーヒーでものみましょう」
と、役所の夫に恋文を書き、
中年夫婦は
「一時、東洋座前『喜びも悲しみも幾年月』を、ぜひみたいの、映画がすんだら、百円だけパチンコをさしてあげます」
と、恋文を出すと、男は必ず、そわそわと心に、新婚時代の追憶の詩を抱いて飛んでいく、
彼女はしおらしくそこにたたずんでいる。思うても楽しいではありませんか・
世の女性は、夫婦ラブレター運動に参加して、このムードを全国的に展開すれば、日本中の全家庭は、明るく楽しくなり、天下清朗となります。
若い奥さんも、中年の人も、お婆さんも、明日からといわず、いますぐ夫君へ恋文をお書き下さい。効果は100パーセントにうけあいです。