28 『 税金ごろ 』
黒い眼鏡が、肩をいからし、靴の踵の音を無理に立てて、入ってくる。
いきなり、
「電話をかせ」
「どうぞ」
男は立ったまま、ダイヤルを廻す。
通話中と見えて相手は出ない。受話器を耳にあてたまま、私を見つめる。
<コヤツ、どこの野郎か、礼を知らぬ徒輩なり>と、心中で相手を軽蔑し男をにらみつける。
「いま、署長室にいる、あとから行く」
と、二言、三言いって受話器をおき、机の前に立ち、
「署長は、ただものではない」
と、ぬかす。
「あたりまえだ。伊達に戦争に行っていないよ」
「俺は、そうさいだ」
私は反射的に、
「どこのそうさいか、葬儀屋の葬祭か、野菜屋の惣菜か」
と、私の声は低い。
「大日本愛国党の総裁だ」
「そんなのが、東京にあるな----」
「東京ではない、俺の本拠は、呉だ」
「ホオー、はじめてきくよ」
私は静かな口調であるが、腹の中では、一戦を覚悟している。
かかる輩は頭がよく、相手を見ぬくカンが鋭く、喧嘩をしても勝てぬ者には喧嘩は売らない。
「午前中は自衛隊に行き、幕僚を、肌ぬぎになって威喝してきた」
と、聞きもせぬに、大きなことを言う。
そこへ、白襷をかけた男がきて、直立不動となり、
「総裁、車がきました」
「マア、待て、署長、これは隊長だ」
と、紹介する。
白い、幅の広い白襷に、墨太く「突撃隊長」と書いている。
「隊員は何人いるんだ」
「この隊長と、もう一人私の弟がいる」
「総裁以下、たった三人か」
「これから隊員はどんどんふえる」
総裁は「サア」行こうと、応接椅子に坐りもせず、外に待たしてある外車でかえる。
この男は、何の用あってきたか知らぬが、この世には、税務署ごろがいて、
「俺は税務署長を知っている:
といい、ご馳走になり、ひどいのは金を恐喝する。
現在も私設学校を経営しているKは、悠々と、署長室に入り、要件を一つも話さない中に電話で、
「いま。署長と交渉中だ、ノウ署長」
「署長、電話に出てくれ」
電話に出れば、彼の術中に陥るが、相手のため、電話に出て、応待する。
しかし、彼の申出は納得出来ぬから拒否する。
翌日、彼はまた顔を出し、池田首相と並んでいる写真を見せて、○○体育協会の幹事という。
「ホウ、君はえらいんだね」
と、彼の社会的地位と、実力は認めるが、条件はあくまでも拒絶する。
それから数十日後、彼は血相かえて飛びこんでくる。
「署員が収賄している、オ前、責任をとれ」
と、机を叩き、どなる。
「そんな職員はいない」
「いる、昼食を喰った、あきらかに収賄だ」
と、いきまく。
昼食が収賄罪になるとは、思わぬが、彼は、コーヒー一杯も収賄という。
「調べてみる」
「ザマーミロ」
と、捨ゼリフを残してかえる。
職員にきくと、昼食は辞退するが、その店主は、すしを注文してあるから二人は喰べ、代金をおくが、どうしても受取らなかった。
「よし、わかった」
と、その日のすし代三百円を、他の職員に支払いにいかす。
翌日、Kはきて、
「どうだ」
私につめよる。
「代金は支払ってあるよ」
「ナニ、泥棒をしてみつかり、返しても泥棒だ」
と、理屈にならぬ理屈をいう。私はあまりにしつこいので、腹が立ち、
「オイ、これはオ前の芝居であろう」
「ソウダ、税務署と、オ前の鼻をあかしてやろうと思い、納税者と相談して一芝居打ったよ」
と、ぬかす。
「コノ野郎」
と、怒鳴ると、彼はニタニタして退散する。
○○団体の山石君は理論派の税金闘争のベテランであり、若い職員と争いにくる。私は
「君は税理士の資格者でない。私と個人的に話そう」
と、階下につれており、友好的に話し合う。もっとも難儀なのは木原老である。
この御仁は、税務署と警察いじめを生甲斐とし、着物と下駄履の古風の格好で、一年中、雨の日も、風の日も。また、夏の炎天下をいとわず市内を廻り、警察いじめと、税務署いじめの種を拾って歩く・
生来非情に正義感の強い人で、曲ったことは、大小を問わず、誰れ彼の区別がない。
局長が、ゴルフに官用車を使用しているといい、
「けしからぬことだ」
と、直接どなりこむ。
新米の警察官は、田舎のおっさんと思い、態度が悪い。すると、
「木原だ、名を名乗れ」
と、舌端、火をふいて怒り、手帳に書きとめ、本部長に、
「不届の巡査がいる、部下の教育が悪い」
と、本部長を叱る:
たまたま、昼の休憩時に碁をうっていると、
「執務中に扇風機を使っていいが、碁をうちながら扇風機を使うのは税金の無駄使いだ」
と、警察のえら方をつかまえて雷を落す。
税務署へは、
「弁護士の税金が安い」
「あの病院は堕胎専門だ、よく調査せよ」
と、注進してくる。
二度三度とやってきて、その結果をきき、いい加減なことをすると、
「オ前らは相手せぬ」
と、するへった下駄を鳴らしてかえるが、数日後には『木原情報』に
「税務署は無能だ」
と、いうパンフレットを、国税局、検察庁、各警察に配ってまわる。そのうえ東京の大蔵省と国税庁にも郵送する。
木原さんは小学校しか出ていないが、なかなかの達筆家であり、論正しく、しかも雄渾j華麗な文章は新聞の論説に劣らない。
ペンはケンよりも強しといい、この『木原情報』は役人には頭の痛い存在である。
二千部刷るが、広告は一つもとらず、全部自費で印刷し無料である。
私は不審に思い、
「後援者いるのでしょう」
「イヤ、孤立無援だ」
と、きき、木原さんのえらさに頭が下がる。
この人は、針の職工だが、労働運動の闘士で、大正時代に「広島製針朋友会」の中心人物として、広島県社会運動史の一頁を飾っている。
若くして最高得点で市会議員となり、当時の文学少女太田美智子さん(広島の生んだ女流作家)と親しかった。
『一粒の麦』の作者賀川豊彦氏とも、深い親交を結んでいた。
書中見舞を出すと、電車に乗り、それから十キロもある拙宅にき、年賀も出すと、古い紋付袴の正装をして、これまた、テクテク歩いて答礼にくる。
「お上り下さい、お茶を召し下さい」
「イヤ」
と、テクテク歩いてかえって行く。
外面は威張るが、誠に律儀な人であり、女医の奥さんのために、午後三時には必ず帰宅して風呂を沸かしていた。
しかるに多くの人は、この意味は、警察も税務署も、また納税者も毛嫌いする。
納税者が頭の上のこぶを思うのは、ある理髪店の店主が、木原老と喧嘩する。
怒った木原老は、板塀の節穴から一日中覗いていて、お客の数を丹念に調べ、
「税務署の、課税は甘い」
と、数日間覗いて、とった統計を示し、その理髪屋の税金を高くせよと、署員を叱るからである。
この頃、巷にこの人を見かけぬので、人々にきくと、この二月、亡くなられたという。
誰れとも協調せず、世を叱り、世に背を向け、孤影秋空をいく黒き烏の如く、その生涯を閉じた。世人は、どう思うか知らぬが、私は、こ奇人を尊敬していたので、その死を悼み、悲しくて哀しくてならない。