18 『  税吏のロマンス  』

  『おいと声をかけたが返事がない』

 

  これは草枕の一節である。呉の沖に浮かぶ島に、ポンポン蒸気船で渡り、路傍の老婆に道をきく。

 

  「でいむしょか」

という。黙っていると

 

 「でいむしょにちがいあるまい」

 自分の言葉に釘を指してくる。

 

  「どうしてわかるか」

と私もぞんざいな島言葉になる。

 

  「目を見ればわかる」

と、このばばあめは心憎い。

 

  「いまどき機帆船は、かえっとらん、皆留守だ」

と言外に、さっさと島から退去せよと無言の抵抗をする。

 

  いつもならささやかな抵抗は気にせず、路傍の人と問答はしないが、離島は平和でのどかであり、おのずと心がゆるみ、

 

  「留守でも駐在さんに頼み家財を差押える。ばあさん、ご配慮は無用だよ」

と行きかけると、

 

  「税務署には嫁はやらん」

と毒づく。この一言はカチンと胸にくる。

 

  「島の芋食いの大根足の娘を税務署員は嫁にもらわんよ、

   税務署の者は、まんな美人ばかり嫁にしてるよ」

と、やり返す。私自身、ここから遠からぬ島生まれであり、家内も島の者だが、この場合は売り言葉に、買い言葉で負けてはおれぬ。

 

 実際に先輩、同僚、若い職員の奥方は、皆、明朗な美人ぞろいであることは驚きであり、楽しいロマンスを秘めているに違いなく、職場の誇りである。本庁では全国の署長が集まったとき、私は、

 

  「税務職員は夫婦円満、父親譲りで頭がよく、大学進学者が多い。

   東京に、全国の税務職員の、子弟の進学寮を建設して欲しい」

と提唱したことがある。税務職員には嫁にやらんは、こころない人の、こころなき言葉であり、昔話である。昨今とみに株が上がり、娘もつ親は若い署員に目をつけ、私も二人の娘を頼まれ一人は署員と縁談進行中である。

 

さて、島の船主は全員滞納だ。徴収官は、片っぱしから家財一切を差押える。祭りと正月に帰るが、座るとこなく、夫婦相抱いてねるふとんがなく、税金を納める。

 

  悪質者は、屋根瓦をはぎにかかると降伏し、全納した。さすが一騎当千の荒武者徴収官も、足をむけられぬ一軒の島の瓦屋がある。私は現、南署課長M君と気がすすまぬが乗りこむ。五十年輩の主人は、お茶とするめを焼いて出す。心中、(これなら大丈夫)と思い

 

 「滞納税、五万円即納してください。でないと家財を引き揚げる」

 一気に高飛車にでた。ところが猫の如く温和であった主人は、ガバと立ち上がり、日焼けした顔は鬼と変ぼうし

 

 「これまで無茶税金をとり先祖伝来の田畑を売った。その上わしの女房まで盗った。

   まだ税金をとるのか、いくら税務署でもひどい」

と、どなり私に襲いかからんとする。税金と女房は理論上関係ないが、女房を盗った犯人が同僚であることに道義上引け目があり、長居無用とあたふたと退却する。

 

  しげしげと、税金を徴収に行くうちに、若い美男の徴収係長はいつしか、瓦屋の女房と深い仲になったのである。十三、四も、年上を妻にしたK君は間もなく他局へ転勤した。

 

  数年前、一行十七人で道後に一泊旅行する。国税徴収官という、いかめしい肩書きをもつ税の取り立てのベテランぞろいであり、自ら新撰組をもって任ずる荒武者どもであるが、今日ばかりは、税を忘れて仏様のように温容で、だれもが一流の紳士である。

 

  A君はキャンパスを開いて春お瀬戸海を描いており、

 

  B君は船尾で和歌を作り、俳句亡者の私は苦吟して旅を楽しむ。

 

  七時宿につき、一人二合の酒に酔う。翌日、松山城に行くため道後公園に集まる。

 

  私は公園の中の句碑を見ているうちに、皆んな行ってしまい一人になり、一行のあとを追うため電車に乗る。松山市内にはいり、急に、戦場で離ればなれになって別れた戦友に会いたくなり、電車を降りて、広い持田町を探して、和田君宅を訪ねる。

 

  幸い在宅し、夫婦とも喜んで迎えてくれる。

 

  「オイ、命の大恩人だ、料理屋に案内しょう」

という。私は何のことかわからない。

 

  酒と女の好きな和田君は、私をダシにして豪遊をたくらむのではないかと疑うが、

 

  「戦地でひん死の時、班長に薬をもらい、おかげで命が助かりました」

と、礼をいう。私は忘れていたが、あの薬がこの男を救ったのかと思うと、

 急に命の恩人という意識がわいて、恩人づらをして料亭に乗りこむ。

 山海の豪勢な料理である。

 

  二人の芸妓がくる。一人はだれかによく似ているが思い出せない。大いに酔い、和田君は歌い、女も歌う。ふと女の顔が芸妓松江に似ているのに気づく。

 

  和田君は、昔なじんだ女の面影を追って、ここに来て酔うのである。独身時代、和田君は美声で金離れもいいので、派手な台湾の花柳界でも、もてて、芸妓松江と深い仲になる。

 

  ところが、突然和田君は伊予松山に帰郷し、しかも予期せぬ結婚をして、美しい新婦をつれて帰ってくる。急なことで、宿舎がないので某先輩の家に厄介になるが、

その晩のこと、酔うた松江が

 

 「わたしを欺した」

と怒鳴りこんでくる。和田君はあわてるし、新婦は泣く。我々は松江を説得するが、恋に狂った松江は

 

 「欺された。くやしい」

と泣き叫んで施す術がない。二日目の夜も、三日目の夜も酔うてどなりこんでくるが、ようやくなだめて、丸くおさめたが、身体を売る芸妓でも、恋には強く、意地も度胸もあることをあの時知る。和田君の伯父、宮本先輩も酒豪であった。酔うと真っ裸になり。

 

 芸妓をも赤い腰巻一つにする。お伴の私も、褌(ふんどし)一つにならないと機嫌が悪い。

いよいよ上機嫌になると、男女を問わず相撲をとらすのである。

 

  酒はただであるので、私は喜んでお伴していたが、女との相撲には少なからず閉口していた。

 

  宮本先輩は酒癖は悪いが、俳句の師匠格であり、私の師である。芸妓松江の消息は知れないが、妹芸妓、梅香は黒田君と結婚し、いま、熊本で、昔覚えた踊りを近所の奥さん、婦人会に教えて、夫君が選挙ブローカーをしているので、その片腕となって、清き一票の獲得につとめている。