10 『 捕虜と現地娘 』

 比島バギオ山脈中には、実に数万の戦友が眠っている。

みな餓死したのだ。私も、草を食い、木の根をかじって頑張ったが、栄養失調となり

路傍に行き倒れ、死にかけていたのを米軍に助けられて捕虜となる。

 20年の9月20日のことである。

 

  収容所にはいると全裸となる。頭髪ぼうぼう

 やせて骨と皮の乞食が裸になった如く、

 白昼に幽霊が出たようで我ながら恥ずかしく、両手をあげて、米兵の前を通過するときは、

 羞恥で一ぱいであった。衣服をもらって、女士官のところに行き、捕虜の登録をうけたが、このときほど強い恥辱を感じ、先祖の申し訳がないと心中ハラハラと涙する。バタン攻略戦の勇士として、米兵捕虜をあごで使っていた身が、主客転倒して、彼等の軍門に降り、捕虜に逆転したのである。

 

  カルンピットで米兵捕虜が一人逃亡したので、連帯責任として同室の五人を銃殺した。

 

  マニラの埠頭で、荷あげ中のシャツを盗もうとした米捕虜を二人地上にひざまずかせ、思いきりほおをなぐったことがある。その快感は今も私の手に残っている。(このことは意外な結果となり、私自身が上官からビンタをくらうはめとなる。このいきさつを近く公表して、一人の男を助けたいと思っている)。

 

  気が小さくて、善良な私でも、捕虜には暴君であった。

 日本軍は捕虜にはチリ紙一枚あたえず、彼等は着たきりスズメ、ボロボロのシャツをまとい、

 靴は破れて、ハダシで激しい作業に従事していた。それに対し、さすがに米大国である。

 

  われわれ捕虜に人道的であり、給与は2400カロリーで、日用品はかかさず支給してくれ

毎土曜の夜は娯楽行事を許可した。

 

  自由をうばわれて、鉄柵の中に、妻を恋い愛児をしたってしん吟していた仲間は、りっぱな化粧まわしを速成して両国の大相撲大会を開き、また舞台を作り、カヅラを作り、時代衣装を作って歌舞伎に劣らない芝居も上演した。

 

  3,000人もいる捕虜の中には、それぞれの本職がいたのである。私は詩、俳句、川柳そして小説を書いたが、読物がすくないので、みなとても喜び、奪いあって読んでいた。

 

  ある日、折戸君が

 

 「比島娘が手紙をくれた。先生みてくれ」

と私のところへもってきた。彼はトラクターの技術者であるので、ある程度の単独行動が許されている。彼女が道に落としてくれたという。英語の恋文で、最後に日本字で

 

 「ワタシカズエデス」

と書いてある。

 

  「よう色男」

と皆んなはやしたてる。

 

  独身の同君はいい気になって、外人が喜ぶとき、口笛を鳴らす習癖をまねて、口笛を吹いて上機嫌である。物好きな私は思案の末、一策を授けて二人の恋に協力する。捕虜は外部とは一切口をきいてはならぬ、とくに通信は絶対禁物で、本人も相手もげんばつであった。

 

  そこで私は、日本語の恋の返歌を作ってやり、作業中の彼に歌わせたのである。

 

  奥羽生まれの彼はなかなかの美声で、前身が炭坑夫で土性骨があり、米兵がいても平然と、

いいのどを彼女にきかせて恋を楽しんだのである。

 

  一船先に帰国する私に、彼は礼として、防弾ガラスの破片で写真立てを作ってくれた。

 

  好漢、折戸弥次郎君よ、今いずれにありや。